08年6月23日
親のものは自分のもの
ある雑誌に文章の寄稿を頼まれたのでさきほどまで書いていたが肩がこってショーガネー。自分のWEBで垂れ流しの文章を書くのとはわけが違うので疲れるのだ。というわけでサーフィンにでも行こうかと海を見に行ったが波こそあるものの強風でぐちゃぐちゃ。仕方がないのでサボっていたエッセイでも書くことにしよう。

最近新しいスタンダップサーフィンの板を買ったので以前にも増して海で遊んでいるが歳には勝てないもんだね。調子に乗って1週間以上続けていたら足腰がフラフラになった。見た目よりきつい全身運動だが波に乗れると楽しいのでついついやりすぎてしまう。まったく幾つになっても学ばないね。

というわけで少しは反省して1週間のうち2日くらいは身体を休める日を作ろうと思う。ついでにお酒を飲まない日などもつくればもっと健康そうだがこっちのほうはフラフラになるほど気分がよいので辞められそうにない。そういえば以前ビールを飲み終わった直後にスタンダップサーフィンをしたことがあるがまったくもってバランスが取れずに海に落ちまくったのでこれは良い子の皆さんには薦められないぜ。

さきほど波があれば楽しいと書いたが、波がなくても運動にはなるし気持ちが良い。ただマラソンのような持久戦は苦手なので波がないときのスタンダップも気持ちは良いが退屈になる。そこで最近は防水アイポッドなるものを買いそれを装着して海で漕ぎ漕ぎしている。日本語の歌が出ると思わず口ずさんでしまうが周りに人も居ないので気にならない。まぁ、遠くから見ている人には口をパクパクしている変なオジサンがいるなぁ、くらいはばれているかもしれないが。

このアイポッドなるもの、物が小さいだけに盗難も多いようで娘も息子も学校に持っていってすぐに紛失した。マウイブリティンなる個人売買の雑誌を見るとよくアイポッドが売っているが盗難品なども多いんだろうな。でもまあ捕られたから人のものを捕る、などということもなく子供たちはアイポッドなしで暮らしているがさきほど気付いたら私の知らない曲が知らぬ間にダウンロードされていて、あっちゃーという感じだ。子供ってのは親のものを自分のもののように使うからね。帽子、サングラス、パンツ、シャツ、バックパック、トランクスと油断も隙もあったものじゃない。でもまあ、自分が息子の年代(18歳)のころ、オヤジの服を着ようなどとは思わなかったわけなので、これは喜ぶべきか悲しむべきか複雑な気持ちなのだ。

たまにはやつのダウンロードした歌でも少しは聴いてみるかと、アイポッドをいじったらいきなりSlightly Stupid(ちょっとだけお馬鹿さん)なんてグループが出てきたよ。どうすべー。

08年4月22日
息子の誕生日
月20日は18回目の息子の誕生日だった。その日彼は友人たちとキャンプに行くと私のトラックにキャンプ道具を満載して出発したが真夜中になって「DLNR(自然管理局みたいなもの)にキックアウトされた」と憤慨して家に戻ってきた。彼の行った場所は4輪駆動でしかいけない場所で周りに人家もない誰にも迷惑をかけない小さなビーチで私もいつかキャンプしようかなと狙っていた場所だ。パブリックビーチでのキャンプは違法なのは分かっていたが最近のマウイはとても厳しいようだ。息子たちは真夜中にテントをたたんで家に帰ってきた。妻は最初から許可を取ってしかるべきキャンプ場に行けばよかったのにというが、私には息子の気持ちがよくわかる。3Mとなりにお隣さんのテントがある場所のキャンプはできれば遠慮したい。

昔は(と言っても10年ほど前だが)興が乗ると仲間とよく真っ暗なビッグビーチの先に星を見に行った。砂まみれになるのが嫌なので道路に皆で寝転んで星を眺めた。その頃は車など殆ど通らなかったんだな。それこそ降るような星空と流れ星のあらしの下、いろんな話をしながら優しい気持ちになったものだが、今同じことをすると5分で車に敷かれるかDLNRに追放されるだろう。開発の波は人と車とルールを増やし生活と遊び場を圧迫しだした。まだマウイに来て15年しかたってない私にGood Old Daysを語らせるには早すぎると思うのだが、、、。


ちなみに思わぬケチのついた息子の誕生日だったので「飯でも食いに行くか?どこでもいいぞ」というと家で映画を見ながらピザを食いたいなどと殊勝な申し出。お好きにどうぞ、と好きにさせてたらTVを通じて有料映画とピザの注文までできてしまうのには驚いた。というわけで息子の誕生日にはR指定の人を殺しまくるギャング映画を家族揃って見るはめになりました、いやはや。
08年4月19日
ラジャが、来た!
実は一月ほど前のことだが、ダイビングの仕事から帰ってきてこの部屋のコンピューターに向かっていると目にしみるような懐かしい強力なアンモニアの匂いが足元からプーンと漂ってきた。これは忘れもしないラジャのおしっこの匂いだ。「ウソだろ!」とあわてて隣の部屋でテレビを見ている息子に「こっちに来てみろ。ラジャのおしっこの匂いがするぞ」というと「Raja's Dead, Dad、自分の匂いじゃないの」とつれない。そんな事を言われると何となくこっちも自信がなくなり、「そーか、今日はダイビングの後まだシャワーを浴びてないもんな。水中でおしっことかしちゃったしな」と思わず自分の腕をくんくんしてみるがよくわからない。そこに妻が帰ってきたので「俺臭いか?」と自分の腕を差し出すと臭くないという。実はこれこれしかじかと事の成り行きを説明すると「ラジャは来てるよ。私も何回も匂ったもん」と平然と言ってのける。霊感の強い彼女はそこかしこでヘンなものを見たり感じたりするのでそれくらいは驚くほどのものでもないらしい。話を聞くと日本に住む妻の母親も飼っていた18年生きた猫「コウヘイ」が亡くなってから同じように時々出てきては匂いを撒き散らしていくという。本当に不思議な話で私的にはとてもビックリなのだが我が妻も妻母も「ラジャきたよ」「あーやっぱり」などと二人で平然と話している。ヘンな親子だ。
08年2月08日
ラジャよ、さらば
我が家の飼い猫ラジャが一昨日永眠した。享年2008年2月6日。結婚する前に拾った子猫なので逆算すると20年は生きていたはずだ。
彼は私がオアフ島に住んでいた頃、電話中に足に擦り寄ってきた生まれたての小さな捨て猫だった。足でからかっていると電話が終わってもずっと私の後を付いて来た。しょうがないから当時私が住んでいた41階のホノルルのコンドで大家に隠れて飼いだした。マハラジャというディスコ(死語か?)帰りに拾ったので、どうでもいいやと名前はラジャと名付けた。

今の嫁さんと結婚することになりアラワイ運河沿いのそのコンドから私の職場であったカネオヘのオーシャンフロントの家に引っ越した。その頃のラジャは青年期真っ盛りで飯と寝るとき以外家に居付かず、スズメを捕まえたときだけ「見てくれ」といわんばかりに口に半殺しにしたスズメをくわえて得意そうに家に戻ってきた。その姿を見て妻は何度絶叫したことか。格闘のあとで部屋中が鳥の羽だらけになっていることも良くあった。当時私はよく潜って魚を捕まえていたが、外で獲物を卸していると魚の血をペロペロ舐めながら「早くクレクレ、にゃーにゃー」と私の手に噛みついてきたものだ。ときどきボートにも乗せ海で泳がせると見事な猫掻きでスイスイ泳いだ。それを見た妻の母は絶対ビデオに撮れば、TVで流してくれるわよ といっていたが、今思えば本当にビデオに撮っておけばよかったな。

そんな感じでワイルドにカネオヘ時代を過ごしたラジャは当然我々と一緒にマウイに引っ越してきた。我々が最初に住んだ家はキヘイのサウスポイントという同じような家が何十棟も並ぶタウンハウスだ。庭も今までの場所に比べると格段に狭く、まさしく猫の額ほどの大きさ。ここでも昼間はどこかにほっつき歩き、そこかしこの猫と喧嘩し縄張りを広げ夜になると餌を食べに戻ってくる生活を続けていた。しかしある時ラジャが1週間ほど行方不明になった。どうやら同じような家が沢山あるので迷ってしまったらしいが、夜中に戻ってきた彼は右前の足首と膝(肘?)の2箇所が骨折してぐにゃぐにゃになっていた。翌日獣医に連れて行くと「多分車の下にでも寝ていてファンベルトにでも絡まってしまったのだろう、でも猫は3本足でもそれほど不自由ではないので思いきって切っちゃいましょう」とのこと、ん〜喧嘩には不利だな、と思ったが彼の意見に従い右前足を根元から切断したラジャはそれから3本足の生涯をおくった。現在住んでいる場所は10年ほどになるが、3本足ながらここに徘徊してくる野良猫には果敢に戦いを挑み、全て追い払っていた。

しかし年月が過ぎ去るとさすがに以前のようには外に出なくなり、たまに外に出ても喧嘩をしていた様子はなくどっちかというとルンルンしていたので、その頃はどこかにいい女でもつくっていたのだろう。そのラジャがぼけてきたのはここ2〜3年ほどで1日に10回以上飯を食い、夜中も「飯くれ」と1〜2時間ごとに人を起こし、寝たきり老人や新生児より大変だ、と妻は嘆いていた。ラジャの寝床の横に居候部屋があるのだが、当時そこに泊まった人達もさぞ大変だったことだろう。しかしその夜中飯くれ攻撃もこの半年ほど収まってきて朝のみ人の足の間に入ってきて飯クレーとなくようになってきた。何度彼を蹴飛ばしたことかわからないがその頃彼の目は殆ど見えなかったのだろう。ご飯をあげても目の前まで持っていかないと見えないようだった。それ以外のときは殆ど寝てすごしていた。

一昨日の夜のラジャは軽い引きつけを頻繁に起こし、皆でとても心配していた。その頃はもう歩くのもやっとでその前日辺りから下の方も垂れ流し状態になっていた。口には出さぬが「明日までもつかな」というのはその夜家族全員感じていたと思う。ラジャを囲むように暫らく皆で見守っていたが皆それぞれ学校や仕事があるので「もう寝ろ」とベッドに行かせた。そして翌朝、妻の泣き声で飛び起きるとやはりラジャの命は尽きていた。荒っぽいが優しいところのある息子は自分でマットレスを持ち出しラジャとぴったりくっついて寝ていた。死んでしまったラジャの顔の真横に大盛りになったラジャのご飯が置いてあるのを見たときは私も切なくなってしまった。息子にしたら元気にこの飯を食ってほしかったのだろう。ラジャには飯を食うそんな気力もなかっただろうが、彼の気持ちが伝わったのか夜中に心配して起きだした妻は、3時頃はまだ生きていてじっとカズマの方を見つめていたよという。まだ暖かいラジャの身体を撫でながら「ラジャ、また思いっきり走れるようになったな」とつぶやくと横で布団をかぶって寝ていると思った息子の喉がグッとつまり「ファック」と泣きながらつぶやいた。

ラジャは自分の丸いベッドの上で両手両足を目いっぱい伸ばし、「さぁ、そろそろあっちの世界にでも行くか」とでもいうように大きな伸びの体勢で旅立っていった。子供たちが学校に行った後、庭のプルメリアの木の横にラジャの墓を掘ったが長すぎて入りゃしない。妻と一緒に苦笑しながら何度か掘りなおしラジャを横たえ土をかけ、水をかけた。いづれ彼の栄養はこのプルメリアの木が吸収し、キレイな花を咲かせるだろう。さらば、ラジャ。

07年12月07日
妙と言う女
昨日の早朝、ダイブマスターの講習に1ヶ月間我が家にスティしていたタエが日本に帰った。妙(みょう)と書いてタエと読む。彼女は初対面のときコソコソと私から逃げていった女だ。ダイブマスターを目指すなら当然泳げるだろうと思ったがドラエモンのように手を丸めて水をかき25Mでハアハア息が上がっていた女だった。一ヶ月もマウイに来るのにパンツを1枚しか持ってきてない女であとは水着で過ごしていた。初対面のオレに向かって「ヒロさんってヤンキーだったでしょ」とか「シワが多いですねぇ」などとほざく女だ。友人の新進気鋭アーティストのKAZに「高校生のときはリーゼントでしたか?」などともほざいていた。

こんなクソッタレ24歳だが話を聞くとなかなか面白く宮古島、オーストラリア、パラオ、バリ、その他色々な島々で迷惑をかけながら垂れ流し旅行をしてきたらしい。「何でマウイに来たんだ?」と聞くと「何となくすごい島だと思った」と答えた。ここまでけなしても面倒見てやろうと思ったのは毎日自転車でキヘイのプールに通いそこの熱血インストラクターにしごかれながら見事に400M11分(決して早くはないが)で泳げるようになったり、カナとのダイエット競争で夕飯リンゴ1個の生活を続けるほどの根性があり、パンツは1枚しか持ってこなかったがそこそこの胸の大きさをしていたからだろう。(笑)。

こんな仕事をしているといろんな人に会うが久しぶりに面白い女に会った気がする。彼女は来年の6月から1年かけて世界一周の旅をするらしい。当然やばい国にも行くわけで「お前襲われたらどうするんだ?」と聞くと「コレだけは付けて、と頼みます。」とコンドームをいつもポケットに入れているらしい。なんだかその話を聞いてますます心配になる反面、その覚悟に反対は出来なくなった。よい時を摘むんでいって欲しいものだ。

我々の若かりし頃、日本の体制に背を向け海外に出て行った多くの友人達に通じるスピリットと割り切りをこの24歳の女性に感じた。彼女はサルが頻繁に出没するような三重県のど田舎で育った女だ。もしかしたらこれからの面白い人種はそんな場所から出てくるのかもしれない。日焼けを気にするような都会の女にゃパンツ1枚で1カ月生活する事は無理だろう。写真は置き土産に置いていった彼女の絵の中の一点。玄人裸足の面白い絵は妻が額を買い我が家のベッドルームに飾られている。

07年12月07日
アナログな生活(from Stormy Maui)
コナストームが吹き荒れた12月2日から6日にかけて豪雨と暴風がマウイ島を襲い私の住むキヘイのビーチパークは大木が次々となぎ倒されついに昨日から黄色いテープが張られすべてのビーチパークは立ち入り禁止になった。海沿いのキヘイロードも通行止め、いたるところにヒザくらいの水溜りが出来ている。キヘイからマアラエアに抜けるケアリアポンドの道路も通行止め。ラハイナからキヘイに帰る車はカフルイまで迂回しなければならない。おかげで道路は大渋滞。おまけに30時間以上に及ぶ停電でキヘイの全ての信号が消え、主要交差点では土砂降りの中、マウイポリスが一所懸命車の誘導をしていた。

こんなときにマウイ島に来てしまった観光客はお気の毒だ。昨日は雨が小降りになった束の間、運動不足になった犬を公園に連れて行き思いっきり走らせた。するとカナダのバンクーバーから来たと言う品の良さそうなおばちゃまがにっこりと私に話しかけてきた。なんでも14歳まで生きた彼女のゴールデンレトリバーがジンボに顔の細さも体格もとてもよく似ているらしい。ジンボをなでなでしながら、声を震わせてしゃべるオバちゃまに私も少しウルウルしてしまった。彼女は娘の結婚式がこの土曜日にあるらしい。天候が回復してくれることを祈るばかりだ。

二日間に及ぶ停電でいかに普段の自分たちが電気に依存しているか気付かされた。ちょっと前までコンピューターなど生活に必要がなった筈なのに、今ではまるでライフラインが絶たれたような大事になってしまう。我が家の家族全員の携帯電話もバッテリーが切れ、待ち合わせも上手くいかない。昔は「渋谷のハチ公前に夕方の6時な」などとやってた筈なのになぁ。唯一オープンしているグロサリーストア「Safe Way」はレジ以外店内真っ暗、息子が不味そうな缶詰とアメリカ製のインスタント食品をいくつか買ってきた。そして必要な氷は全て売り切れていた。

海もぐちゃぐちゃで遊べるコンデションではなく、車は何処に行っても渋滞の嵐。おとといの夜は家中にロウソクを灯しカップヌードルを家族ですすり、私は日本酒を温め飲んだくれていた。昨日は朝から電気はないがたっぷりとある時間を有効に使い、ダイビングレギュレーターの手入れをしガレージの中を整理整頓すると、数年前に頂いた備長炭を発見した。普段はチャコールにファイアースターターをぶっかけぼっと点火させてしまうので点火に1時間ちかくかかる備長炭の出番は無かったのだ。昼過ぎから備長炭をゆっくりと点火、お湯を沸かし焼き芋を作り肉を焼き焼酎を温めた。アナログに過ごす時間はとてもゆっくりと過ぎ、ほろ酔い気分でオカメインコのピーちゃんとヒーちゃんの鳥小屋の分解、清掃、ペイント作業までしてしまった。

夕方の6時頃、電気が戻った。明るい食卓で備長炭で焼いたステーキとチキンはとても美味しかったが、一夜明けた今日、妻は掃除機でゴンゴン私のイスにぶつかり、息子は私の真横でガンガンと音楽を流し、遂にゴンゴンガンガン攻撃にギブアップしラップトップと共に寝室に避難してきたところだ。電気のない生活はとても不便で不安だが、それほど不快ではなかったなと昨日までの生活をやや懐かしんでいる。

余談だが、近所のダイブショップのオーナーに「どこか潜れる場所ある?」と聞いたら「我が家の庭」とほざいた。まんざら冗談でも無く、膝上くらいまで水が貯まり庭に置いたボートはそのままエンジンがかけられるらしい。いやはや、、、、。

写真は1日だけ晴れた12月3日のカフルイハーバー、強力なオフショアでボディボーダーだけ楽しそうにしてました。
07年10月25日
心の中のちいさな引き出し
可愛いタイトルなので今回はワタシではなくボクにしよ。

今オアフ島の友人をカフルイ空港まで送り、その後スタンダップパドルを取材している雑誌ターザンのスタッフとちょろっと会い、少しだけ波乗りをしてから我が家に戻ると家の中はボク一人。ボクはお腹が空いたので簡単に目玉焼きを作り保温してある白米にふりかけをかけ「いただきます」とボクだけの昼食。なんだか静かなのでBGMでもと選んだのがどういうわけかボクが中学生の頃愛聴していた「五つの赤い風船」、我ながら自分の思考回路がよく理解できないが、耳を傾けてみると西岡タカシをリーダーとする正統派フォークソングが心地よい。やっぱり今はそういう感じなんだ。

どうやら「今聞きたい音楽」とはそのときの自分の精神状態や環境がかなり作用するようで、何か音楽が聴きたいなと思ったときに50年間溜め込んだ自分の心の中の音楽の引き出しから聞きたい曲、もしくはシンガーを選び出すのだが、どうしてそれ?ってのがよくある。しかしまぁ、心のままにその曲を聴いていると楽しくなってくるから不思議だ。だから、常夏の島アロハハワ〜イに遊びに来たゼロのお客さんもボクの車に乗った瞬間、「ハイサイ、オジサァン♪」や時には「上野発の夜行列車下りたときから〜♪」などと流れてくるのでそこに一瞬微妙な空気が流れる(笑)。客商売ならばIZやHAPA、ケアリイなどを静かにBGMに流してあげればと思うのだが、頑固オヤジの海遊び会社なのでショウガナイノダ。それにBGMでカネ取ってんじゃねーしよぉ(←いきなり頑固オヤジ)

環境に合う音楽、合わない音楽というのは確かにありカリフォルニアに住んでいた頃はハイウェイを大きなトラックで飛ばしつつ、矢沢栄吉やサザンなどを大音量で聞きながら大声で歌っていたヘンなやつだった。日本では恥ずかしくてとてもできないがアメリカ本土ではもともとヘンな東洋人に見られているから関係ないし、あの頃ボクも若かった。サザンや矢沢などの王道音楽は日本ではあまり聴いていなかったがさすがメジャー路線、アメリカの太いまっすぐなハイウェイによく似合うぜ、ベィビィ。そして日本で時々聞いていた情緒豊かなフォークソングはドライで殺伐としたアメリカ本土では全く似合わず、さらば拓郎、高田渡、遠藤賢治に加川良、と殆ど聞かなくなった。しかし自分が歳を重ねたことやメローなハワイに移り住んだことで最近はまた昔のフォークソングなどを時々一人の静かな時間に聴いている。今日「五つの赤い風船」を聴いてふと思い出したが、中学3年生の時の文化祭でボクとボクの気になっていたあの娘と二人で「遠い世界へ」の歌詞と空と雲と鳩のイラストを教室の壁中に書きなぐったことがあった。

「雲に隠れた 小さな星は これが日本だ 私の国だ
若い力を身体に感じて みんなで歩こう 長い道だが
ひとつの道を力の限り 明日の世界を 探しに行こう」

夢があり希望があり、これからは俺たちの時代だとみんなで信じていた生意気盛りなティーンネージャーの頃だ。そしてあの頃からManyMany Moonが過ぎ去り、それなりに歳を重ね少しは落ち着いてきたかというと、心の中の引き出しはますます乱雑になり、ある日の気分はジャックジョンソンやスティーリーダン、はたまた石川セリに山口百恵、ディランセカンドに久保田真琴、ヨシイクゾウにボブマーレー、石川さゆりにマリアマルダーとまったく脈路のないチャンプルーアタマになっている。

ある時期愛聴していた斉藤哲夫の「さんま焼けたか」という曲を娘がとても気に入ったことがあった。彼女がマウイの街中や車の中で「さんま焼けぇーたか 粋な親父の声がするぅ♪」と大声で歌うので一緒にいた友人などはビックリしていた。そのたびに妻は私をチラッと見て「犯人はあなたよ」とばかりイヤな顔をしてみせたものだ。そのとーリだが、時々愛想の良いずる賢い奴に出会ったときに頭の中にちらつく頭脳警察の「ふざけるんじゃねーよ てめーのその善人面を ふざけるんじゃねーよ いつかぶち壊してやらぁ♪」などという過激な歌じゃなくて良かったではないかとボクは思う。

07年10月12日
Molokai Hoe 2007
日本から世界最大のカヌーレース「モロカイホエ」に参加する湘南アウトリガーカヌーチームの応援団として発作的にマウイから海を渡りモロカイ島に行ってきた。ラハイナからモロカイフェリーでほんの1時間半ほど揺られるとカウナカカイハーバーだ。この島の時間はあいかわらずゆっくり流れ夜空には天の川や人工衛星ががはっきりと見える。しかし選手やコーチ、サポータ-をいれ総勢15名ほどの我々チームはこの島を楽しむ余裕もなく明後日のレースのために大忙しだ。大会にはハワイ、アメリカはもとよりタヒチ、ブラジル、イタリア、トンガ等いろいろな国の人が参加している。総勢120艇ほどの6人乗りカヌーにはそれぞれエスコートボートが必要なのでモロカイの海はカヌーとボートだらけででえらい熱気だ。実はマウイから水中銃を持って素潜りで晩飯の魚でも捕まえようと思っていたのだが、マウイを出る前日妻からの電話で「モロカイ島の魚を捕まえないでくれという看板がいたるところに立ってるよ」というのでやめにした。いつも平和なこの島に世界中から海の男たちが1000人以上集まってくるので、私のような考えの輩も多いのだろう。雇われた120艇以上のエスコートボートも殆どがオアフ島のフィッシャーマンでモロカイ島に来る間にほぼ全員がトローリングをしてくる。そして夜はダイビングでロブスターを捕まえたり底釣りをしたりするのでモロカイ島の住民にしたらかなり迷惑な話だ。このレースでモロカイ島に落ちるお金は大きいだろうが一般のモロカイ人にはほぼ関係ない。自重しよう。

湘南アウトリガーカヌークラブは今年で3年目の参加、存在もようやく知られてきてレース前日の軽い練習後には、ナイノアトンプソンやボンガパーキンス、デーブカラマさんらのビッグネームたちが我々のチームに挨拶に来てくれた。私は港で知り合いのボートキャプテンと偶然再会、彼は20年ほど前私がオアフ島でダイビングの仕事をしていたときのボートキャプテン、あいかわらずのSalty Dogぶりだ。やっぱ海の男は陸に上がれないんだな。

レース前の最終点検 行けぇ、ショーナン!! 食っちゃえ、食っちゃえ!! また来年、行くぜ!


レース当日は怒涛のようにカヌーとボートが入り乱れる。120艇の中から自分たちのカヌーを探すのも一仕事だ。エスコートボードが自分がエスコートするカヌーを見つけられずオアフ島まで行ってしまったという冗談のような話も実際にあるのだ。我々はレース開始後30分ほどして無事に湘南チームのカヌーを見つけることができた。彼らはいままでのお茶目でオバカな顔を返上し皆真剣だ。下ネタを言うこともお尻を出すこともない。中盤に入り大海原のど真ん中でカヌーがデッドヒートを演じる場面では思わず応援にも力が入る。相手は日本語がわからないので「食っちゃえ、食っちゃえ」などと言いたい放題だ。

ようやくオアフ島のココヘッドが見えるころになるとパドラーたちもかなり疲れてくる。しかしそこからダイアモンドヘッドを越えワイキキまでの海路はいかにうまくうねりを掴むかの勝負だ。波のサイズは肩、頭だがいろいろな角度からくるうねりに翻弄される。ゴール近くではブラジルチームとの最後の戦い、1挺身ほど先を行く我らが日本チームは最後の力を振り絞り見事に逃げ切りゴールした。成績は6時間12分、112艇中75位とトップ争いにはまだまだ道が遠いが、誰もがこのモロカイホエのレースを完走し満足な表情をしている。レースが終わり全員で記念写真のときになると、ボートで選手をサポートした静岡からやってきた若いモンモンが皆に胴上げされ、そのままパンツを脱がされみんなの餌食、いつもの湘南オバカチームに戻っていた。なんせこのチームのテーマソングは「もしもし亀よ、亀さんよ」なのだ。「亀は遅いけどいずれウサギに勝つだろ」とコーチのラリーはお気に入りのようだ。

日本のカヌー文化はまだ産声を上げたばかりだ。波のない湘南で練習しながらこのハワイの海峡レースに挑むのだからハワイアンのコーチは「まるでCool Runningだ」(ジャマイカの選手がボブスレー競技に参戦する映画)と冗談とも本音ともつかぬことを言っているが、彼らが切り開いてきた道はきっと後の世代に受け継がれいずれハワイアンやタヒチアンと肩を並べる日が来ると思っている。何十年先かわからないが亀がウサギを抜くときをこの目で見れたら本望だ。

07年09月12日
さらば石川さゆり
日本の旅行から帰ってきていまだに気の抜けたような感じになっている。いつもはバケーションから帰ってくると「あーやっぱマウイが一番だ」と実感するのだが、今回は過疎化の進んだ種子島に行ってしまった為かマウイ島がとても忙しく感じている。マウイ島には良い仲間がいて良い季候があり良い海があるのはわかっている。とくにシュノーケル、ダイビング、サーフィン、ウインドサーフィン、カイトサーフィンといろいろな海遊びに適したゲレンデが揃っているマウイはハワイ諸島の中で一番恵まれていると思う。南から北への移動も中心がくびれているので20分でいける。島中走り回るサーファーにとっては最高の地形だ。海好きな人が集まる島なのがよくわかる。

しかし残念ながら最近のマウイ島は住人にとっては必ずしも暮らしやすい島ではなくなってきたというのが悔しいところだ。なにせ物価が高い。聞いた話だがマウイ郡の電気代はアメリカで一番高く、生活費はニューヨークについで2番目に高いらしい。サーファー人口は5年前に比べて数倍に膨れ上がり片道2車線のワイレアに続く道はBMWやメルセデス、レクサスがアメリカ本土のようにすっ飛ばし、ラハイナやパイアは毎日のように渋滞、十数年前我々が引っ越してきたころに比べればとてもLife in the First Laneの島になってしまったように感じる。

というわけで私は最近暇さえあれば日本の田舎の不動産情報をコンピューターでチェックし、セミリタイア生活を夢見ている。まあ、同じ場所にこんなに長く住んだことがないので、またいつもの放浪癖がくすぶりだしてきたのだろうが、最近夢見ているのは海に落ちる夕日の見える土地を手に入れ自分でこつこつと居心地の良い家を建ててみたいなということ。大工修行もそのためにしたもんな。そこで静かに暮らしながらサーフィンや釣りや家庭菜園などをして夕日を見ながらまったりする。いいでしょ。しかしそれだけでは退屈なので、どこかで噂を聞きつけたもの好きな客が「ダイビング教えてください」などと時々尋ねてくるような環境が良い。その尋ねてくる女性が石川さゆりのようだったらもっと良い。でもたまにはちょっとはすっぱな中森明菜でもいいかなぁなどと馬鹿な夢は膨らむのだが、でもまあ人生ままならず、マウイ好きなわが家族はこの島を出て行くことに大反対なのだ。そうなると石川さゆり似の美女37歳も中森明菜似のはすっぱ女28歳も一人で尋ねてくるはずなので(予定)自分一人で始めてもそれはそれで都合がよいかもしれないが、よく考えるとそんな生活から居住費の高いマウイ島に生活費の仕送りを捻出することはほぼ不可能なので、今日も頭を抱え天空を見つめ、答えが出ず、「さらば石川さゆり」とサーフボードとビールを車に詰め込み海に出陣してしまうのだ。

07年06月03日
宮大工の本

最近読んだ宮大工棟梁「西岡常一」氏の本は私にとってかなりの目からうろこ本だった。

曰く
昔の家は木の癖に合わせて家を建て北を向いて育った癖の強い木は北方面に使えば立派な強い柱になります。今は無理矢理木をまっすぐにして木の癖を無視して使いはるやろ、あれでは丈夫な家になりまへん。人間も同じですわな、今は型にはめて誰でも同じように教育しはるやろ、あれじゃあきまへんわ。それぞれの癖を見てその癖にあった教育をすれば誰でも役に立つようにできてるんや。

曰く
樹齢100年の木で家を建てれば家の寿命は100年持ちます。だから昔の人は家を建てる時に自分の子孫のことを考え木を植えました。すると100年後の建て替えのときには庭の木が立派な材木になっとるんや。今の人はあと2割足せば寿命が大分延びると言っても自分の代だけ持てばよいと金を渋る、時代は変わりましたなぁ。

圧倒的な木の知識を持つ宮大工西岡氏は机上の理論を振り回す学者とよく討論になりことごとく論破していったという。薬師寺再建のとき心柱の沈下を考え図面より屋根の傾斜を独自の判断で5センチ高く作らせたそうだ。なるほど写真で見ても薬師寺西塔と東塔の屋根傾斜は微妙に違うのが分かる。「親父、大丈夫かぁ」といぶかる大工衆に「1000年後にはちょうどいい高さになっとるわ」と言い放ったそうだ。その時間の感覚がすごい、あまりにもかっこいい台詞ではないか。

アメリカ人大工に日本の宮大工の話を聞かせると面白い。「日本じゃ3年間は刃物研ぎの練習だって」「No way」「1本の釘を入れるのに半日かかるらしいよ」「sick!」 「日本の寺は1000年寿命を持たせるために1000年の樹齢の木を使うんだってさ」「Wow!」、「カンナ屑は裏が透けなきゃいけないらしいよ」「Shit」なんて調子で喋っていくと早さのために何もかも機械でやっつけるこっちの大工は「ああ、今まで俺がやってきたのは何だったんだぁ」と目が中空に彷徨いだし心は日本の宮大工にひれ伏す。「参ったかなぁ、わはははは」と彼らほども仕事の出来ない見習い大工の俺が威張ってもしょうがないのだが、外国に居るからか日本の素晴らしい職人技をなぜか伝えたくなる。

西岡氏いわく台湾まで行かないと樹齢1000年以上のヒノキはもう無いらしい。日本の寺院まで外国産の材料に頼らなければ作れなくなってしまったとは皮肉な話だがこれは無計画に山を切り崩した国家の重大な犯罪ではないか。しかし惜しくも亡くなってしまった最後の宮大工といわれた西岡氏の魂は唯一の弟子小川氏が引き継ぎ、小川氏はその教えと技術を絶やさないように現在20人ほどの弟子に西岡氏の教えを伝え彼らは日本中の寺院で活躍しているらしい。嬉しい話だ。


この西岡氏を心の氏と仰ぎこの本を貸してくれたマウイのサーファー大工タカ(右)に感謝だ。
(注)たまたまこんな写真しかなかったが我々はいつもこんな格好をしているわけではありません。

07年04月15日
Respect

日本ではあまり関係ないが、色々な国籍の人が暮らしているハワイでは人種問題は避けては通れない問題だ。幸運な事に我々日本人はここハワイではある程度リスペクトされていて日本文化も他のアメリカの州のどこよりも浸透しているので暮らしやすい。昔日本から移民してきてこのハワイの地に根を下ろし自分達のアイデンティティを見失わず種をまき成長させてきた昔のサムライのような移民一世やそれを守り続けている日系人の先輩達のおかげだと感謝している。逆に同じアメリカだからとハワイの文化を尊重せず平気で本土流に振舞う白人達は見ていていい気持ちはしない。残念な事に彼らの数は年々増えここキヘイでは主流になりつつあるので恐ろしい。白人家庭の多いキヘイに住んでいると我が家に平気で土足のまま上がりこんでくる輩もいるがそのたびに注意している。小さな事だが日本人が守り通しハワイにすっかり根付いたそのような良い習慣はずっと先まで残したい。たまに日系三世くらいで逆さ箸をする人がいるが、そのような人に会うと恐れ入りましたという感じだ。

私がよく夕方に顔を出すコーブパークは去年から黄色いゲートができ、夜遅くなると締め出されてしまうようになった。何時から何時までと言うサインも建てられたが、それは「Relax, You are in Maui」というステッカーが貼られ消滅した(笑)。しかし数日前から前の道路に駐車できないように大きなコンクリートがいくつも置かれだした。どうやら前の家の仕業らしいがそこは彼らの土地ではなくマウイ群の土地だ。この場所のボスのようなハワイアンのカマが警察に電話しその違法性を訴えた。彼の言った「ここは全て奪われていった俺達の最後の砦だ」という言葉が胸に突き刺さる。私が通いだした10年前は海に入ればみんな顔見知りだったが、今は周りを見回しても知らない人のほうが圧倒的に多い。それは当然の変化でそのことをとやかく言うつもりはないが、我々が昔から集まりサンセットを見ながらビールとスピリットを交換してきたこの場所が新参者に乱暴につぶされていくのを黙って見ている事は出来ない。

時々大工仕事を手伝っている会社は韓国人、日系人、日本人の私、ハワイアン、白人と小さな会社でも多国籍だ。数ヶ月前に本土から引っ越してきた唯一の白人の名前はJamesというのだが、オートバイのハーレーが好きなので自分のことを「ハーレーと読んでくれ」とみんなに言っている。しかしマウイローカルの集まっている職場なので「OK、ハオレ(白人)」と軽くいなされ、私以外誰もハーレーと呼んでやらず最近では本人もすっかり諦めている。しかし奴も故郷のシアトルではバンダナと皮ジャンでハーレーにまたがりブイブイ言わせてただろうに、つらいところだ。周りがみんな箸で弁当を食べているのに一人だけハンバーガーとか食べるのでよく冷やかされているが、彼はそうやってローカルの洗礼を受け彼らのスタイルを見てだんだん仲間に受け入れられていくだろう。それでいいと思う。そしてシアトルの仲間がマウイに来た時には本当のマウイを伝えられる白人の一人になっていると思う。がんばれハオレ!

07年03月05日
親離れ

毎年冬の時期に我が家に泊まりに来るプロサーファーの友人に「ヒロさん、最近ミーヤン一緒に遊びませんね、寂しくないですか」と聞かれた。ミーヤンとは今年14歳になる娘だが、母親べったりだった彼女も最近は自分の部屋に友人を招きいれたり友人宅に泊まりに行ったりと自分の世界を拡げだしあまり我々とは遊ばなくなった。しかし寂しいかといわれると以外とそうでもなく正しい成長過程にあるのではないかとオキラクに考えている。いつまでたっても親子べったりなんて気持ちが悪いではないか。家族全員で海に行き一人サーフィンをやらず車の中で本ばかり読んでいた娘も不憫なものだったしな。不憫といえば息子が生まれたころは私がウインドサーフィンばかりやっていたので、いつも強風の中で顔中砂だらけにして待っていた息子のほうがもっと不憫だった。顔から砂をはたくと鼻水のとこだけ2本砂柱が残ってそりゃそりゃ笑った、否、悪いことをした。

思い出してみれば息子にもそのような親離れの時期があり、その頃は自分の価値観の押し売りをしたいようで当時息子が自分の車に乗り込むと私が聞いていた音楽をいきなり消し自分の音楽をかけボリュームをグワッと上げる。そしてこっちは聴きたくもないラップ音楽を我慢して聞かされる、というとそうではなく、「自分の音楽は自分の車をもってから聞け」といつもそこでひと悶着起きたものだ。些細なことだがそのようなことをちゃんとわからせていかないと人をリスペクトしない勘違い人間になってしまう気がする。そんな息子も今では一皮向けたようで数年前から聴く音楽も(少なくとも我々といる間は)ラップからジャックジョンソンやドノバンなどのアコースティック系になり趣味も似てきて揉め事も少なくなったのは喜ばしいことだ。

しかし息子もまだまだ親を自由にしてくれるものではなく16歳で車を運転して学校に行きだしてからまたまた心配の種が増えた。すでに学校がある日にサーフポイントで発見してしまった例2回(親がサーファーというのもかわいそうなものだぜ)、事故暦1回(本人は当て逃げされたといっているが)、ガス欠暦数回、鍵を閉め忘れ車上荒らしにあったのが2回とまだ中古のホンダシビックをあてがって1年も経っていないのによくやってくれる。そして夏休みはバリ島や日本にサーフトリップに行きたいとか、あのボードを買いたいとか夢ばかり大きい。「お前、バイトもしないで金どうすんの?」と聞くと「I Don't know」といきなりとぼけて英語になる。

最近では子供たち抜きで夫婦で静かに夕食を食べる機会もままあり「老夫婦のようだ」と笑っている。しかし親の自由な時間は増えたが、それに比例して心配事も出費も大きくなっているようだ。最近マウイに住む友人達はベィビーラッシュで多くの家庭に小さな子がいるが、夫婦交代でサーフィンをする彼らの姿を見るにつけ昔の自分を思い出し「がんばれよ」とエールを送りたくなる。先はまだまだ長いんだぜ、ヒヒヒ

07年01月20日
一本の電話

先日マウイ在住のKから一本の電話があった。なんでもディーラーに修理に出した車が何ヶ月も手をつけてもらえず放置されているらしい。様子を聞きにいくとパーツが届かないからあと一月待てとのこと。この時点で彼はすでに4ヶ月待っているのだ。これが自分であれば多分Fワードを連発しマネージャーを呼び出し何かしらの約束を取り付けるまで帰らないだろうが、若者はやりきれない気持ちでその場を去り私に相談してきた。そのときに彼が「日本人だからって舐められてるんでしょうかね」と聞いてきたがそのフレーズが頭にこびりついた。50歳を迎えた今ではこっちの生活も長くなり「舐められてる」と感じることはあまりなくなったが、彼の悔しい気持ちは手に取るようによくわかる。近くにいれば代わりに怒鳴り込んでいただろう。私も20代の頃のカリフォルニア生活では、肌の色、国籍、英語がしゃべれない、文化がわからない等の理由で散々悔しい思いをした。日本人というだけで注文を聞きに来ないウエイトレス、20%の金利で車を売りつけようとするセールスマン、土まみれになりながら庭をきれいにしたのに平気でお金を踏み倒す客、戦わなければいけない場面が良くあった。そして舐められないために身体を鍛え髭を伸ばしあまり口を開かず、鋭い眼光でいつも肩をいからせ歩いていた。グリーンカードに当時の自分が写っているが20代だというのに顔中髭だらけで髪の毛も長くまるでネアンデルタール人だ。

そんな場所に生活しながら日本に帰る途中で観光で降りたったハワイは同じアメリカでもまるで別の国のようだった。マクドナルドには醤油がありここに住む白人は平気で箸を使いコメを食べる。お土産やさんは日本語をしゃべり太陽は降り注ぎみんなニコニコ笑っている。まるで日本より居心地のよい日本を見つけたようでとても気に入ってしまった。しばらくして私はカリフォルニアからハワイに引越しもう20年も経ってしまった。 あの日のKからの電話は居心地の良いこの島に住みながら自然に忘れてしまった「舐められる」というあの頃の苦い感情を思い起こさせた一本の電話だった。Kの話だが多分日本人だから舐めてるってことではなく、文句を言わない客を舐めてしまっているのだろうと思う。寂しい話だが文句を言ううるさい客を先にすませ、お人よしの静かな客は後回しにしてしまうような風潮は確かにある。 だからアメリカ人は小さな頃から自分の権利を主張する練習をし相手をスマートに論破することを学校で習う。「言わなくとも気持ちは通じる」「お客様は神様」「正しい順番」などの日本的思考はあまり通用しないのだ。

外国に住む日本の若者達は人種、文化、言語、様々な面で切磋琢磨され鍛えられていくのだろうが、自分の正義とプライドが傷つけられたときは頑張って戦って欲しいと思う。当時の私の復習は今思えばとても幼稚な手段だったが、それでも相手にメッセージは通じたはずだ。「ごめんなさい」といえない国に住むのは時としてとてもストレスフルだ。

07年01月01日
爆裂イリワイ通り
悪ガキの顔に戻って爆竹をスタンバイするジェームス

2007年の正月にこれを書いている。2006年最後の日(といっても昨日だが)は庭とガレージとボートの掃除をした。隣のコテージには今回で3回目になる大阪からの家族が泊まっているのだが、そこの8歳のボクにやけになつかれ、彼が庭掃除とボート掃除を手伝ってくれた。掃除が終わり一息ついて一緒に休んでいるとふと私の腕を見て「えーなぁ、毛があって」とつぶやいた。「なんでやねん?」(彼と話すときはなぜか関西弁になる)と聞くと「だって、直接草とかが腕にぶつからないやろ、ええやん」と私の腕毛の上に張り付いた小さな草を見て言っている。なんだか楽しくなって「んじゃ、チン毛もまだなんか?」と聞くと「まだや」と男の顔をしてザンネンそうに答えた。関東のシャイな子供と違い大阪の子供はそのまんまなので面白い。私が外に出ると「どこ行くねん?」私が家にいると「何やってんねん?」とほっといてくれない。妻がその声を聞くたびに「もてるね」と面白がってる。かなり色気づいてきてカッコばかりつけている我が子に比べこのくらいの年代の子は本当にどんどんぶつかってくる。そして喜怒哀楽の表情がそのまま顔に出るのがとても良い。

さて昨日の話しだ。大晦日の夕方になると娘とその友人達はセーフウェイで買った花火を仲間とやりだした。ちょっと前まで親が全ての花火をつけてやっていたが、今は自分達で遊べるので私は家の中でゆっくりと酒を飲みながら過ごしていた。そして夜の11時ころになるといよいよ年明け近しと言う感じで外の音がどんどんエスカレートしてくる。我が家の犬はすっかり怯えて尻尾を丸めてテーブルの下で震え、私が移動するたびパニくってついてくる。怖いときは私を頼りにしているようだ。すると外から「ひろさ〜ん、早うやろうや」の声、妻がまたしても「もてるね」とニヤニヤしてる。さてそろそろ行くか、と私も外に出る。今度は大人が爆竹や派手な打ち上げ花火の用意をし子供達がそれを見守る番だ。我が家の通りはお祭り好きで今回も前の家が300ドル分の爆竹を自分のバスケットゴールに仕掛けだした。この写真の子ジェームスはウエイトリフティングのハワイ学生チャンピオンで今はテキサスに留学し自分を鍛えているマッチョマンだがクリスマス休暇なのでマウイに里帰りしている。彼は子供の頃よく我が家に泊まりに来ておねしょをして帰ったので私には頭が上がらないのだ(笑)。今年は大人の仲間入りをした彼が先頭に立って花火を仕掛ける。花火と言っても日本のように情緒があるものではなくひたすらでかい音がして激しく燃え上がる花火ばかりだ。一昨年は電柱のてっぺんまで巻き付けた爆竹から火の粉が飛び隣の家の屋根がこげ去年は窓を開けっ放しにしておいた車の中に花火が飛び込みシートが焦げた。新年を迎えるのも命がけだ。私は昼間のうちからボートにカバーを被せついでに車も非難させいつでも火が消せるように水道ホースをボートの真横にセットし万全を期した。

5mほどの火柱を立て激しく吠え燃え上がる爆竹 興の乗った若者が火を飛び越える 屋根から見上げるちゃんとしたワイレアの花火

夜中の11時55分、ジェームスが自分の家のバスケットゴールに仕掛けた何千発の爆竹に点火、そしてニューイヤーが爆音とともにやってきた。気勢とHappy New Yearの声が飛び交う。そして夜空を仰ぐと綺麗なワイレアの花火が遠くに見えたのでみんなで屋根に登って見物した。さぁ2007年の始まりだ。

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