ホロホロエッセイ2003年
| 03年12月5日 |
| 発作的日本訪問 |
| 実は今年いっぱいで切れてしまうJALのマイレージが2万点近くあったのでもったいない、もったいないと発作的に日本に行ってきました。10日間あまりの短い滞在なのでなるべく静かに1人でさらっと行って帰ってきたかったのですが、結構ばれてた(笑)。 初日は友人のバカ嫁宅に泊めてもらったが時差ぼけのせいで朝3時からパッチリと目が覚めてしまった。ボケっとしてるのも癪なのでまだ暗いうちから近所のJUSCO24時間営業をぶらつくが、どうも私の行く場所場所に青い制服を着た警備員が尾行してくる。そりゃ、全てのものが珍しいからきょろきょろ見ていたし、ジャージにサンダルの変な格好はしてたかもしれないけど、人をはなっから悪人あつかいしないでもいいんじゃないかい、っつの。泉谷しげるが「黒いカバン」を作った気分がよくわかる。むかついたので何も買わずに出て吉野家のような店で競馬新聞を広げているオヤジの横で長年夢に描いていた牛丼を食す。うまい。マウイアンを幸せにするのは実に簡単だ。腹も満たされた頃ようやく日本の空も明るくなってきた。 二日目からは私の東京の別宅化しているカメラマンの友人宅に移動し、のんびりと暮らした。大体毎日朝6時に起き寝ぼけまなこで朝風呂に入りJウエーブの優しい女性の声を聞きながら、ゆっくりと眠りの皮をはぎ1日の予定を考える事から始まった。朝飯に近所のコンビニでコロッケパンやメンチパンを買い、濃い牛乳を飲むだけで幸せになる。まったくマウイアンを喜ばせるのは簡単だ。 東京にいた数日はかねてから欲しかった一眼レフのデジカメをいろんな店でチェックした。物の弾みで渋谷に行ったときなどは、喧騒とガキどもの多さにくらくらしてしまった。疲れているのにどうにも安らげる店が見つけられず、ついに駅前の床屋に逃げ込んだ。どういうわけか中はおじさんと外人が多く、とても落ち着く。知らぬ間に私もどっぷりとこっち側(おじさん側ってことね)の人間になってしまったのだな。私はそこで生まれて初めてプロにひげの手入れをしてもらいとても幸せな気分になった。顔も剃ってくれたので得した気分だ。マウイアンを喜ばせるのは実に簡単だ。 渋谷を離れ青山方面に歩くと自然に歩調が早くなっている自分に気付く。目的もなくぶらついてるのになぜだろうと妙に悔しい。そこで青山劇場周辺のコンビニで肉まんを買い、ウォークマンにジャックジョンソンをセットし遥か昔原宿で黒い布を広げていた頃のように路上に座りこみ、流れる人々を暫し眺める。誰も私を気に掛けない。やっぱり忙しい街だわい。 後半は横浜の実家に戻り、歯医者に通った。三泊もしたので飽きてしまったが、その間ZERO GRAVIITY JAPANのダイマスで最初のゼロのHPを立ち上げてくれた平田君に会えたのは嬉しかった。そして私が10代の頃バイトしていた酒屋のコーちゃんに線香を上げた(今年亡くなった)。彼は田舎のベタベタが気に入らず「外に出て行け」といつも私のケツをプッシュしてくれた人で、喧嘩が強くかっこよい人だった。そんな男の息子(当時小学生で今は29歳になっていた)はやはりかっこいいわけでコーちゃんをつまみに息子と楽しく話した。
そんな感じで(どんな感じだ?)最終日は湘南新宿線グリーン車で酔っ払いながら東京に戻り(ユキちゃんありがとう)私の10日間の日本滞在は終わった。今マウイでこれを書いているが、お世話になった方々に感謝し、会えなかった方々にお詫びします。なんせ予定を立てるのが嫌いな性格なので皆様に迷惑をかけることも甚だ多い。これに懲りずにこれからもよろしくお願いしますと、年末の挨拶まで兼ねちゃうのはまだ早いか… |
| 03年12月15日 |
| 愛しのジンベイ |
マウイに戻って、港に行くと3日間続けてモロキニ島に出現したジンベイ鮫の話がまだ尾を引いていた。「Where were you?」とみんなは「かわいそうに」という表情の裏側に勝ち誇った顔を隠しながら偉大なるジンベイ鮫との遭遇についてく克明に語ってくれた。この感じは何かに似てるなーと思ってたら、サーフィンに行って波を外したときに、「昨日来ればよかったのに」といかに逃した波が完璧だったかを身振り手振りで語ってくれるロコオヤジのそれだ。こっちに言わせたら「すぎちゃったからしょーがないの、こっちは君みたいに暇じゃないんだから」ということなのだが、モロキニ島のジンベイ鮫はどうもほとんどの船が見たようで、いまだに話題になっている。聞くところによると当日のゼロのお客さんもいきなりのジンベイ鮫出現で大興奮。70過ぎのご老人までモロキニ島のバックサイドにジャーンプ、ジンベイ鮫と一緒にシュノーケルをしたらしい。ミワコはダイビング器具をつけて数十分ジンベイとランデブー。職務上船から離れられないキャプテンのグレッグは10m近いジンベイ鮫が水面に顔を出すたびに、「here,
here」パチパチパチと一生懸命手を叩いて呼んでいたそうだ。「まったく池の鯉じゃないんですからね〜」とミワコはクールに感想を語っていた。で、興奮収まらぬ悔しいグレッグは翌日自分のボートを出して友人と二人でモロキニ島へ。そして見事に愛しのジンベイに再び遭遇。ふたり(?)だけの濃密な時を過ごしたようである。そしてグレッグはハート型の目をしたままロマンティックな文章と写真を送ってきた。(英語のトップページに紹介)私は東京でジンベイ出現のニュースを聞いた。「あ〜今年も逃しちゃったかぁ。。。」「なんでこの時季日本なんか来ちゃったかなぁ」「犬にジンベイなんて名前つけちゃったからいかんのかなぁ?」などとしょぼくれていたが、よく考えれば私のジンベイへの思いはまだ見ぬ恋人のように胸の奥にいまだに熱く継続中ではないか。きっと今年ジンベイ鮫を見ちゃった皆は今度再会した時「あんりゃー、あん時はあんなにきれいだったのにぃ」などと中学の同窓会で初恋の人に会ったときのような感想を漏らすのだぜ。きっとそうにきまってる。 PS 港のホロホロ話の話題なのでついでに言っておく。「ヒロ、おまえ今年のハロウィーンのとき、マスクかぶって腰ミノつけてココナッツブラしてボートの上で踊ってただろう」と何人のキャプテンに言われた事か。あれは俺じゃない、といっても誰も信じてくれない。 |
| 03年11月12日 |
| 理想的引退生活 |
| 自分の年齢が40代の後半にもなると引退後の人生についてちょっと考えたりする。最近友人ともリタイア後はどこに住みたいか、などという会話が増えてきたような気がする。引退後の生活といっても私個人にはあてにできるような保障も貯金もないので、ドースベ?というのが正直なところだが唯一考えられる方法は「自分の財産を全て投げうって物価の超安いどこぞの外国に住む」ということだ。実はマレーシアあたりが候補地だったのだが、気候も環境も良いハワイと比べるとベターハーフに「勝手に行ってくれ」といわれそうだ。 ハワイの日系人たちは引退後にラスベガスに住む人が多い。ハワイとラスベガスとは一見何の共通点も見つけられないようだが、実は日系人にはラスベガス/ギャンブル好きが多いのだ。ギャンブル好きなJapanese Bloodの血が騒ぐのかどうかは知らないが、物価も安いネバダ州は第2の人生の候補地に人気だ。しかしこの前新聞で「ハワイから引退してネバダ州に住む日系人の50%がハワイに戻りたがっている」という記事をみつけてしまい、人事とは思えず、哀愁をもって字面を見つめてしまった。 写真は最近のポイント開拓で見つけた海底30mのある場所だ。驚くべきことに一文字3m四方くらいの大きさで「ALOHA」と書いてある。岡本太郎もびっくりの海底30mのでかい芸術だ。さらにその横には2mほどの鳴らせるベルと実物のウインドサーフィンが遥か海面目指して立っている。これは途方もない重労働ではないか。聞いた話によるとダイビング好きな爺さんが長い時間をかけてコツコツと作っているらしい。まだまだ何かが作られていく形跡があるので、お許しが出るまでこのポイントはシークレットにしておくつもりだが、こんなアートを実際に見てしまうと嬉しくなる。勝手な想像だが彼は長期間にわたっていろいろ与えてくれた海、お世話になった海に感謝の意を表現しているのではないかと思う。数十年経ってもこのポイントは残るだろう。「このポイントはおじいちゃんが作ったんだぜ」と孫が友達に自慢できるような物を創り出すってのは実にCoolではないか。 組織の歯車の一環になって一所懸命頑張ってきた人間がリタイアしたときに何が残るのだろう。植木に水をやりながら老いていくのはちと寂しい。とりあえず私が引退して時間が沢山出来たときには、この水中アロハ爺さんのように非生産的なバカらしいことをコツコツと本気で始めたいと思ってしまった。 |
| 03年10月03日 |
| 久しぶりのVACATION |
| アリさんのように真面目に働いていた夏の忙しいさなかには「一段落したら絶対遊びに行ってやんかんな」といつも思っていた。そして暇そうな時期があったので、早速「10月4日から10月13日まで休みます」宣言をした。旅行会社と契約してないのでその辺は気ままなものだ。私が休むといったら休むのだ。 よく考えたら家族全員揃ってのバケーションはなんと5年ぶりだ。前回はマウイ島のカアフマヌショッピングセンター内のディズニーストアをディズニーランドだと信じ込んでいた娘に愕然とし「これは本物のディズニーランドを見せなければ。。。」とお父さん(私です)は頑張って家族全員をフロリダに連れて行ったものだ。日々続くアミューズメントパーク巡りにぐったりしたが子供達はすっかりオーランドの町が気に入ったようで「カズクン(プッ)はこの町の大学に行く」などと可愛いことをいっていたものだ。あれから5年、今回は息子が13歳、娘が10歳、いっちょまえの意見を言う年になっている。 バケーションの目的地はなかなか決まらなかった。波乗り頭の妻と息子は波のよい場所、海外生活20年目の私は日本の温泉とピンポンの旅、将来イルカの調教師か獣医になりたい娘は水族館と動物園とそれぞれ勝手なことを行っている。そして最終的に決まった場所はカリフォルニアだ。娘と息子はマリブやリンコン、トレッセルズの波に乗れる。娘はもちろんサンディエゴ動物園とシーワールドに行ける。そして私の希望した鄙びた旅館案はきっと鄙びたモーテルとテント暮らしに変わってしまうのだ。
「持っていくCDは一人4枚まで」の私の命令に「ダッド、このCDケースは15枚しか入らない。一人4枚で4人だと。。。Oh My God, What Shall I Do(ドーシタラヨカッペ)?」と、娘が叫んでいる。勝手にしてくれ。 |
| 03年10月18日 |
| Back to Reality |
![]() 10日間のカリフォルニアのサーフキャンプから帰ってきた。マウイ島を発つ日はノースにいい感じのうねりが入っていて「You are going to wrong place」と空港のおじさんに笑われてしまった。旅のレポートはマメな可奈ちゃんがそのうちにアップしてくれることを期待しているが、どんなものだろう?LAのダウンタウンでは日本人の多さと日本物なら何でも手に入る便利さに感動し、海ではグラッシーな波に感激し、よく整備された清潔なキャンプ場や二人以上で走れるカープールレーンに感心し、「感」の多い旅だった。だが、70マイルオーバーで運転するLife in the First Laneの生活は緊張も多いので正直マウイに戻ってきてホッとしている。行く前はマウイ島の開発ラッシュにうんざりしていたが、LAから帰ってくるとマウイの田舎さに心が和む。もしかしたらバケーションというのは自分達の住んでいる環境の良さを再認識するために必要なものなのかもしれないな、などと生意気なことを温かな海の中で考た。我等の周りにいつも溢れている青い空とスマイルはどこにでもあるものではないのだなぁーと。 というわけでゼロ再開です。休みの間にゼロで潜れなかったお客さんにお詫びし、カリフォルニアでお世話になった皆様に感謝します。特にダウンタウンで宿を提供してくれたジュン、キャンプ道具を提供したくれたハル&トモちゃん、サーフボードとウエットを貸してくれ波乗り関係のコーディネートをしてくれた誠一郎さんとマミちゃん、留守中の我が家の面倒を見てくれたミッチ、ルミコ、ミホどうもありがとう。 さっきまで汗をかきかき庭仕事をしていたらマリブから引っ越してきた隣りのオヤジが「Back to Reality」と笑いながら走り去っていった。我々の現実はそんなに悪くない、と彼も私も知っているので洒落にはなるわな。 |
| 03年09月16日 |
| トンガンタイム |
私のボートの置き場所を見て「旦那、下をセメントにしないか」と身体の大きなトンガ人が声をかけてきた。今は芝生の上にボートを停めているのでどうしてもトレーラーのタイヤの部分が轍になってしまう。以前からセメントにしたかったその部分をセールスされたので私はよよよよと話を聞く気になってしまった。しかし見ず知らずのトンガ人、本当に信用できるかわからない。「その前に君のやった仕事を見せてくれないか」と言うと「わかった」と彼の施行したという近所の家のセメント仕事を見せてくれた。見ると割と上手に出来ていたので見積もりを頼むとまあまあの線を出してきた。何日かかるかと聞くと掘るのに1日、セメントに1日、乾かすのに2日、計4日だという。私は若干悩んだものの「これはいいタイミングではないか」と思いきって彼にセメント仕事を依頼することにした。 思えばここで奴を信用したのがいけなかった。詳細はここでは省くが、前金を払ったが最後、まず仕事に来ない。電話で弁明する事の9割が信用できず、金にずるく、仕事は手抜き。妻と二人で「こんな人間がこの世に存在するのか」とびっくりしながらあきれている。同時にこの親を見て育つ子供と自分の子どもが同じ学校に行っているのかと思うとかなり恐ろしくなる。初めてこっちの公立の学校について考えてしまった。悲しい事だが全く話しにならないオトボケ人間もアメリカには沢山いるのだ。喧喧諤諤のやり取りの末、手抜きの仕事をやり直させ4日で終わるはずの仕事は2週間たってもまだ終わっていない。トンガンタイムというやつだ。彼は「Don't worry small island」、つまり小さな島なのでオレはどこにも行かないよと言って、全然反省の色が無い。彼が来ると言う度にボートやクルマを他所に移している私の苦労など考えてもいない。セメント業者やブルで穴を掘ってくれた職人さんは「奴が金を払わない」と私に怒りながら泣きついてくる。今日も朝から来ると言ってやはり来なかったので夕方の4時に電話したら今度はタイヤがパンクしたそうだ。SURE! 追伸:上の文を書いてから3日経ち、ほぼ工事は完成した。ほぼ、と言うのは最後の1mほどの石塀が出来ていない。材料がなくなったのでトンガン的に終わりにした、という感じだ。「ここはやらないのか」「やらない。ルックス グッド」ときたもんだ。日本から遊びに来ていた友達は「考えられない」とあきれていた。ここで怒って最後までやらせるのが普通だが、はっきり言ってもう彼らと関わりたくない気持ちが強い。残した1mの石積みセメント作業は面白そうなので記念に家族で完成させようかな、と言う気持ちも働き「セメント屋やブルの兄ちゃんにちゃんと金を払ってやれよ」といって最後の支払いをすました。翌日になってセメント屋から電話があった。「まだ彼が金を払わない。変わりにお前が払え」とバカな事を言っている。どいつもこいつも狂っている。 |
| 03年09月28日 |
| 波頭(なみあたま)家族の普通の日曜日 |
6時半 トラックにサーフボードを積み込み近所のポイントに。腰肩の波があるが潮が満ちすぎていてなかなか割れない。朝のシャワー代わりに軽く海に入り1時間ほど遊ぶ。回りの常連ロングボーダー達が「さっきまで波が良かったのに」と嘘ぶく。 9時 朝食を家族で食べ妻と子供たちはラハイナサイドへサーフィンに出かけていった。一緒にサーフィンに行きたい気もしたが日曜日の混雑が予想されるので私は一人残り簡単なボートの修理と庭仕事をすることにした。長く伸びた枝葉をトリミングし芝を刈り肥料を撒き、スプリンクラーのチェックをすると汗だくになってしまった。 2時 お腹がすいたのでラーメン丼にシリアルをいれ牛乳をかけ一気に胃の中に流し込む。妻から電話でラハイナサイドは波が良いとのこと。これが波乗りにはまっていた時期であればすっ飛んでいく所だが、最近は人の多さに辟易している。女、子供たちと争って波を取るのも大人気ない。やはりお父さんは家の仕事に勤しむことにする。 5時 妻と娘が帰ってきた。ちょっとのんびりした後サーフボードとビールを持って娘と一緒に近くの海に息子を迎えに行く。波があればサーフィンをするつもりだったが、風が強く波がぐしゃぐしゃなので夕焼けをつまみに一人でビールを飲みまったりする。しばらくするとやせたい妻が我が家から5キロほどのこのポイントまでジョギングでやってきた。日が沈み波が見えなくなる頃になりやっと息子が友人宅からスケートボードで戻ってきた。 7時半 家に戻りジンボ(犬)の散歩。人間の年にして私と同じくらい、40台半ばのこの犬を皆が年寄り扱いするので犬ごととは思えず必死にかばう。 8時 これから夕飯を食べて皆でバケーションの予定を立てるつもりだ。 そんな感じで、なんでもない日曜日がなんということも無く終わっていくが、今の生活が恵まれている自覚は十分にある。家族の健康を感謝しつつ、今日の日にも感謝していきたい。(これが難しいんですけどね) COSTCOで本棚を買ったので本の整理をしていたら2年程前の懐かしい雑誌が出てきた。昔のホロホロでも紹介したが、ある雑誌に我が家が特集された時のものだ。タイトルは「もう、ハワイは旅しない。」、サブタイトルに「暮らすところを探し、マウイ島へ」となっている。初めて文章をちゃんと読んだが「可奈さんは腕や肩の筋肉が逞しい」とか「スパムむすびを持って斉田家が登場」とか「子供が巣立ったら旅に出るのさ」(私が語ったらしい)とか面白いことがたくさん書いてあり大笑いしてしまった。 ちなみにこの写真の説明にはこう書いてある。 「人とのふれあい。わずかな時間でも暮らすということは、その土地に根を張る人々と同じ視点で物を見るようになること。子供の教育やごみの出し方など、生活に関わる身近な事を相談し合える人との出会いが楽しい。キヘイの町には、地元の素朴な人々との出会いのきっかけが溢れている。目が合えば優しくニッコリ微笑んでくれるロコたちが、マウイで暮らすというこの意味を教えてくれるような気がする。」となっている。かっこいいではないか。ヒューヒュー |
| 03年08月16日 |
| ZAKENJYA-NEE |
| 年のせいか、仕事のせいか、実は私の耳はかなり悪く、今朝も外でFワードが聞こえた気がしたが、まさかの空耳かと思った。すると憤慨した妻が家の中にドカドカ入ってきて「もう大会に連れて行かない」と怒っている。今日はラウニオポコで年に一度のOLEのロングボード大会なので我が家からも数名エントリーする予定なのだ。事の成り行きはどうやら自分の事を自分でやらない息子に腹を立てた母親が息子に蹴りを入れたら「ファッ○ ユー」と言ったらしいのだ。 ただでさえ忙しくて疲れている私にこの家庭内騒動、それも朝の6時前である。ピキッと切れた私は、この場合は母親が正しいと判断、忙しく動いている回りを無視し自分のサーフボードだけしかクルマに積まずヘッドフォーンで音楽を聞きながらたらたらしている息子に向かって「自分の事しか考えない甘ったれた男が親に向かってFワードとは何事だ。少し叩かれたくらいでアメリカ人みたいに大げさなことは言うな。俺たちは日本人だからそうやってお前をしつける。いやならいつでも出て行け!」と泣きながらびくびくしている息子に向かって徹底的に怒った。大体少し波乗りが上手く英語ができるからと皆にすぐちやほやされるので最近勘違い男になっている。久しぶりにぶつかったが、くるべき時がきたと言う感じだ。 母親に詫びを入れ、無事にサーフコンテストに連れて行ってもらった息子達がいなくなり、我が家は現在私一人、「はちみつぱい」の名盤「センチメンタル通り」を引っ張り出し、鈴木慶一のボーカルと武川雅寛のフィドルに癒されている。 できればくだらない喧嘩も説教もしたくないものだが、たまにはこんな日もあるのでホロホロ日誌にしたためておく。さて何となくまだむかむかしているので海に行ってきます。 PS 大会が終わり沢山のトロフィーを抱え何事も無かったように帰ってきたので、もう一度苛めてすっきりした。今回は我が家に毎年サーフィン合宿に来る大阪の雄二がジュニアの部で2位の快挙、おめでとう。斉田家台風の真中で困らしてしまってエラ、スマンカッタノウ。 |
| 03年08月20日 |
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おいしそうな日本からの頂き物食産物も、何冊ものおもろそうな本も、頂いた音楽も味わえないままお盆を迎えゼロは殺人的な忙しさになってきた。といっても沖縄、グアム、ワイキキあたりのダイブショップに比べれば1日2本潜るだけ、まあ、全然大した事はないのだが、普段楽しているので身体がちょっとびっくりしてしまうのだ。そんなときにゼロにBOBさんという強い助っ人が現れた。彼とは以前からダイビングフェスティバルなどで面識があったのだが、マウイに引っ越してくるとは思わなかった。偶然家の近くに引っ越してきたし、日本語も少しわかるキャプテン・インストラクターなので飛んで火にいる夏のBOBってなもんだ。この夏は多くのファミリーの方がゼロに遊びに来てくれ、子供たちも体験ダイビングやバブルメーカー、ジュニアオープンウォーター講習などでバシバシ潜ってくれた。一般的に子供たちの水中能力は大人たちが考えるよりはるかに高く、親子そろっての体験ダイビングなどで子供が魚のように水に馴染んだあとからカチカチの石のような親がおっかなびっくりついて来るなんて光景は日常チヤ判事、サイバンカン。「うちの子をよろしくお願いします」と頼んでくる親に「お任せください」とはいうものの心の中では「わたしゃ君のが心配だかんね〜、人のことより自分の事をたのみますぜ〜」などと思っているのだ。 仲良くしているファミリーの親から「うちの子供はプールは得意だが、どうしても海を怖がって入ってくれない。どういたらいいでしょう?」という相談を受けた。話を聞くと案の定過去何回か海で悲惨な経験をしているようだ。普段あんまり海に接しない親に「強力なハワイの海を読め」、というのも難しい事なので、本当に手遅れになる前にここはプロにお任せください、という感じだ。私自身ダイビングで潮、ウインドサーフィンで風、サーフィンで波とセットを読む力などを遊びながら随分勉強させてもらった。海に関しての予測には強いつもりだ。 ということで海の嫌いな8歳の彼女エリポンファミリーのボートチャーターの話をする。ちなみにこの日はエリポンのおじいちゃん78歳もダイビングをするのだ。これはもう、ここ以外にはないだろうとレッドヒルのインサイド、風と波を避けられるポイント、深度5mの所にアンカーを下ろす。78歳おじいちゃんの「冥土の土産ダイビング」(←娘が口走った…)を感動しながら見つめたあと、水の中から「エリポン、魚がいるからおいで!」と誘うと「うんっ!」と気持ちのよい声でマスクとシュノーケルをつけ海に飛び込んできた(エリポンと私はとても仲良しなのだ)。海嫌いなエリポンがあまりにあっさりと海に飛び込んだので親は驚き目を丸くし、おじいちゃんは写真を撮りまくり、おばあちゃんはヤンヤヤンヤと拍手喝采。んが、しかし、お楽しみは始まったばかり。素潜りのこつを教え、彼女が3mほど潜れるようになったあと、私はボートの後ろにくくりつけてあった「冥土の土産ダイビング」に使われたスキューバ器材を担ぎエリポンにレギュレーターで呼吸させ深度2mの水中世界を5分間ほど垣間見せた。こんな事を書くと「ちゃんとした説明もしないで」と、どこかの団体の頭でっかちが文句をつけてくるかもしれないが、私に言わせれば、こんな風に条件の整った時にやらなくてどうするのだ、と言う感じだ。耳が痛くならない浅い深度で、寒くならない短い時間、呼吸をしながら多くの魚を見て感動した彼女は海の魅力にしっかりと気付いてくれ、その数日後には妻の可奈と二人乗りでサーフボードの上に立っていた。さてさてこの一文が書きたくてこの話を書いたのだが、後日母親が「何でママがあんなに海に誘っても嫌がるのに斎田サンとは行くの?」と素朴な疑問を8歳のエリポンに聞いたそうだ。すると「信頼関係!」とクールに一言答えたそうだ。ク〜、エリポン、カッコイイ〜 |
| 03年07月16日 |
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7月に入りダイビングの仕事が忙しくなってきた。お客さんも数日間続けて潜ってくれる人が多いので、自然と仲良くなり最後にはどういうわけか一緒に船を洗ったりしてるゼロマジック。皆さんマウイで楽しいダイビングの思い出をつくってくれたでしょうかねぇ。実は私自身お金を出して「純粋のファンダイブ」というのをあまりした事がなく、気が付けば案内する方になっていた。今度は是非沖縄の離島あたりで純粋にダイビングの客として参加したいと思っている。その場合は小さなボートを持っている小さなショップが理想だが、お客さんは25歳前後のダイビングが楽しい盛りのピュアな女性ダイバー約2名と300本以上潜っている仕事が出来そうな35歳女性ダイバー一人旅などと乗り合わせたい。できればあんまり私たちの事聞かないでねタイプのダンマリ不倫カップルや僕らの世界バリヤを張り巡らしているコチョコチョ新婚カップルとは乗り合わせたくないものだ。そして現地のキャプテンとガイドは男でも女でも良いが、静かすぎずうるさすぎない、なるべく経験豊富な海が読める人であって欲しい。若い子とばかり盛り上がっているやせっぽち坊ちゃんイントラやひたすら水中を走り回る運動会ガイドもご免こうむりたい。 ダイビングポイントはモロキニ島のバックサイドのように透明度の抜けた青に包まれるドロップオフが気持ち良い。水中は沖縄のように壁に総天然色の枝珊瑚や海団扇が広がりその周りを無数のスズメダイが群れをなす。ゆるい潮流に流されながら目の前の水中景観を楽しんでいると遥か遠くにうっすらと黒い影、徐々に近づくとジンベイザメがゆっくりとこちらに泳いでくる、などというのはいいではないか。もっといっちゃえば水中ではイルカの声が響き渡り、安全停止ではギンガメアジやバラクーダの群れに巻かれ、ボートに戻るとナギナギの海面から穏やかな風が吹き、真っ青な空に真っ白な入道雲、ラジオからはひっそりとHAPAのアコースティックが流れている。人心地つき足を投げ出すとキャプテンはそのままボートをゆっくりと無人島の入り江めがけて走らす。すると先ほど水中で声の聞こえていたバンドウイルカ2頭が船の横でジャンプ。ラグーンの中まで並走してきたイルカの板東君とシュノーケルでしばらく遊び、白い砂の椰子の木の下で体を休める。するとオーナーの妻36歳手作りのオニギリ、沢庵、麦茶のピクニック黄金三点セットが静かに出てくる。イルカとダイビングの話しをつまみに昼食、今までの体験をボソボソッと私が話しだすと25歳女性二人は驚きで目を丸くし、横では35歳300本ダイバーが優しく微笑んでいる、などというのがいいなぁ。そしてゆっくりとした午後の2本目のダイビングは魚影の濃い浅場で1時間ほど勝手に潜らせてもらう。マクロが好きな人は小物を探し、フリソデエビやハタタテハゼににじり寄り、人生を考えたい人はパタパタパタと自分の身体についた垢を洗い流す、無重力状態を愉しみたい人はホゲーッと中層に浮かびながらプランクトンと戯れる。などというダイビングをやっている所どこかにありませんかねぇ。私の目からうろこを落としてくれたらチップをたっぷりとはずみますぜ。どう、西表のダイちゃん? |
| 03年07月31日 |
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先日、日本のお客さんにル・ボランという車の雑誌を頂いた(ヒデさんありがとう)。その中に「男の8割が車の話しが好きだ」などということが書いてあった。なるほど、そう言われれば自分も好きだもんなぁ、と感心したが8割とは本当かなぁ?ということで、今回は過去に関わりのあった女性、ではなく車達のことを思い出して書いてみます。最初の車は免許を取った18の時に「家で使うから」と親が買ったものでカローラ30(サンマルと呼ばれていた)という昨日来たのに顔が思い出せないお客のような何とも特徴のないクルマだった。CIVICの出た初年度で「家の車は絶対CIVICがいい」と主張していた私にオヤジは一言「そんなクルマみたいじゃないクルマはダメダ」とカローラを購入してしまった。しかし、どうしても無個性な外観と軟弱な性能が気に入らず、「ゴメン、やっぱり君は愛せない」と半年後に中古車屋に売り飛ばしフォルクスワーゲンのビートルを手に入れた。バイトに精を出し4本の太いタイヤとアルミのホイール20万円也もついでに履かせ、ボリュームのある丸いボディを眺めてはクククククッと喜んでいた。不便なツードアも固いシートもクラッチもポロロロロというマフラーの音も全て気に入っていたが、ある夜湘南をゆっくり走っていた私はオマワリに停められ巻尺で車幅を計られ「タイヤがボディより3センチ出ている。」といちゃもんをつけられた。オーバーフェンダーというやつだ。3センチといえばかたっぽでたったの1.5センチ。二十歳そこそこの私は1.5センチの不条理を嘆き、愛するビートルを仲のいい親戚に譲ってしまった。その後はホンダアクティという小さなバンを購入し、天井にスピーカーをつけシートを外し関東から北をいろいろキャンプして回った。のっぽのアクティは燃費もいいし居住性も良かったが、高速道路で風が吹くとひょろひょろとハンドルが取られる情けないやつだった。 アメリカに渡ってからは思い出すだけでマーキュリーボブキャット、シェビーピックアップ、ダットサンピックアップ、キャデラック、ハイエース、セリカ、ハイラックスサーフ、フォードエスコート、フォードエクスプローラー、トヨタ4WDピックアップ、トヨタプレビアとその時の用途によりちょこちょこと乗り換えている。ここでは車は見せるものではなく道具だ。必要性に会わせてトラックやバン、乗用車と乗り換えている。この中に一つでもメルセデス、ポルシェ、フェラーリなどが入っていればかっこいいのだが、昔も今もただの庶民なのであるわけがない。ちなみに1台だけキャデラックが入っているが、あれは飛行機のようなリアのルックスと応接セットのような電動シートにしびれてしまい、衝動買いした20年オチのキャディだ。頼み込んで300ドルで譲ってもらったのだが、思い出したくもないほど修理代がかかった。乗用車のセリカは我が妻の練習クルマで彼女はセリカで運転を覚えめでたく免許取得、初めての事故もセリカで経験している。マウイ島では最初プレビア(日本ではエスティマ)に乗っていたが重たいタンクばかリ乗せていたのでふにゃふにゃの車になってしまった。その後カヤックを買ったおまけについてきた45万キロ走っているトヨタのサビサビトラックは怖いのですぐに近所の友人に売ってしまったがガソリンを給油している時に遂に真中から折れたそうだ。すごいのはそれでもシャーシを溶接して治して乗ってしまうアメリカ人気質で、彼は何十万キロ走っても壊れないトヨタのエンジンを絶賛していた。 1993年に日本に一時帰国した時は100万円で中古のハイラックスサーフを買い、残った100万で中古のボートを買い全財産を使い切ってしまった。「どーだ200万円でおもちゃを二つも買ったぞ」とえばったら妻にとても白い目で見られた。しかし当時金がなくなるとハワイから仕入れていたスキューバプロのBCDやらレギュレーターやらが不思議に売れ急場をしのいだ。 現在はロングボードをすっぽり突っ込める5700ccのダッヂバンと、9mほどのボートを引っ張れるフォードの4WDトラック、なんとこれは6300CCのV10エンジン搭載でガソリンメーターが動くのがわかる。それともう一台、主に妻用だが天井の布がおしゃれなエスニックレストランのように垂れ下がった13年前のボロボロボルボをもっている。「でかいクルマばかりなので小さいボロ車を買ったよ。」と日本の友人に話したら「日本でボルボは小さい車とはいわない」と一笑された。 さてル・ボランの8割が正しいかはともかく、「今欲しい車は?」とか聞かれると嬉しい人が多いでしょう。誰も聞いてくれないけどちなみに私は「ちょっと錆の浮き出た潮の香りのする昔の240Z」あたりがカッコイイナァと今は思っている。 |
| 03年06月12日 |
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| さきほど70歳のホロホロファンより「まだ更新しないの!」と電話でお叱りを受けた。と書くと「ほー、ホロホロファンは上は70歳までいるのか、すごいなー」と思うでしょ。何のことはない、妻の母、身内である。 久しぶりに電話で話しすと、話は彼女の母「鈴木真砂女」の葬式の話になった。「いやぁ、この年になってたくさん勉強させてもらったわ。有名人の葬式があんなに大変なものだとは思ってもなかった。」と言う感想を漏らした。私が「あなたも有名人なのだから、葬式大変だよ。簡単に済ませられるように頼みますよ」と言うと、「ひひひ」と笑って「もう娘に話してあるから大丈夫」「○○先生にお祈りしてもらい、○○さんにピアノを弾いてもらい、好きな花と仲間だけでいいからさ、よろしくね」と頼まれてしまった。私が冗談半分に「じゃあ、一握りくらいハワイの海に撒いておきましょうか」と言うと、「まあ、嬉しいわ」とあっさりと言う。こういうところが年輪を重ねた人のすごい所だ。 彼女が60歳の時、体験ダイビングに初めて連れて行った。泳ぎが苦手な彼女がリラックスして呼吸ができるようになるまで練習し、手に手を取って潜った。水中では度胸がいいというか、体の力を抜きとても上手に潜ってくれた。初めて水中世界を垣間見た彼女の感動が伝わる。多分このときが彼女の人生の一つのターニングポイントになったのだろう。その後ハワイに来るたびに私と体験ダイビングを重ね、後にCカードを取得し自立した。今では熟年ダイバーとして、いくつかの雑誌や新聞にとりあげられたりもする彼女は、潜水経験10年にして沖縄、サイパン、パラオ、シバタン、フィジー、カンクーン、メキシコなど世界の海を潜りまわり、潜水本数も200本以上と立派な中堅ダイバーだ。私は年配の方から「ダイビングに興味があるが、やはり怖い」と言うような相談を受ける時に、よく彼女の話をする。なんせ全く泳げなかった人がダイビングを覚えてから数キロ泳ぐ河童になってしまったのだから、こっちも驚いてしまう。 まあ、そんな風に妻の母と一通りの馬鹿話をして電話を切ったが、彼女とはいつも楽しい会話になるから不思議だ。さっきKIKU放送でみた「渡る世間は鬼ばかり」とはえらい違いではないか。舞台女優と言う好きな職業の傍、趣味で世界の海を潜りまわり、休日には教会に通い、ちょっとした裁縫と料理の腕をもち、毎日を自由に颯爽と生きている都会の一人暮らしの70歳は、まるでこれからの熟年ライフの見本のようでかなりお見事だ。私が日本に帰ったときなど彼女の後ろにくっついて都会を案内してもらっているほどだ。 最近顔の色艶がますます良くなり、「このまま100歳以上まで生きたら、どうしようねぇ。私、死ぬ気がしないの、ひひひひ」と、絶句している我々の前でいたずらっぽく笑う彼女は文学座の最年長で「モトヤマカクコ」と言う。舞台女優なのだが金銭に困っている頃にはTVにもでてレインボーマンのお母さん役などをやっていたそうだ。そのお金で生活が出来たので娘には「お前はレインボーマンに育てられたのよ」といつも語っていたらしい。今回も身内ネタで失礼。ところで身内ネタついでに先日の6月9日、マウイ島に住む多くの友人が妻の可奈の誕生日に集まってくれました。日本からもたくさんのお祝いの言葉を頂きました。皆さん、ありがとうございましたっ。レインボーマン、ありがとうっ!! |
| 03年06月17日 |
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| 上の文を書いてから、マウイ島での老後のことを考えてみた。 私が早朝に波と戯れる近所のコーブパークと言うポイントには、毎朝6時前から同じ顔の老人たちが海に集まっている。彼らは波があれば波に乗り、波が無ければ海を前に馬鹿話をしている。一見刺青だらけの、若い頃はさぞ悪さやってたでしょ、という風貌だが、殆どの人はメローで優しい。彼らの行動パターンは一般人で混みあう8時前までインサイドで波乗りを楽しみ、混んでくると奥のブレークに移動、板は3m以上の大きな板で狙った波は逃さない。昼前には適当に解散し、夕方はまたどこからともなく集まってくる。 私が7時頃に顔を出すと、「遅いから波無くなっちゃったよ、Lazy Boy」とからかわれる。彼らの中に入ると46歳はまだまだヒヨッコなのだ。私は最年長の人の年齢から自分の年齢を引いて「あと何年は波乗りが続けられそうだぜ」と予測し、ほくそえむ。 海でよく見る顔だが名前がわからない、という人達に私と妻は密かにニックネームをつけている。背中まで毛が密集している人は「クマ」、全ての波を乗りたがるけちんぼ老人には「スクルージュ」、Donald Takayamaの板ばかり持っている白人金持ちおじさんは「高山さん」、いつも帽子の中にサキイカを入れてるおじさんは「サキイカオジサン」、Tバックのブリブリ白人姉ちゃんは「ROXY女」、ついでに言ってしまえば日本語ワカリマセ〜ンってふりをする日本人を「ロコ面JAPANESE」、上半身が妙に発達しているロン毛男は「ターザン」、それが汚なくなると「ゴリ」等々、斉田家爆弾トーク炸裂、ひどいものである。 そして毎朝コーブパークに出没している老人軍団を私は密かに「ケーローズ」と呼んでいる。悪ガキがそのまま年取ってしまったような彼らを見ているとマウイ島の老後もそんなに悪くないかな、という気も少しする。 |
| 03年06月19日 |
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![]() どうも年よりくさい話題が続いたのでゼロの名誉のために今回は一つぶっ飛んでみるぜ、ベイベー、タイトルもラテーノチックだぜぃ。実はこの私、オアフ島に住んでいた頃はウインドサーフィンなるスポーツにかなりはまっていて、風が吹くとそわそわして仕事にならず、ついにはダイビングのボートにウインド道具一式を乗せて仕事の終わったあとはそのままボートから飛び降り、ウインドサーフィンで海辺の我が家まで戻る、という風任せ運任せの無茶なことをよくやっていた。その頃よく読んでいた雑誌に「ハイウインド」という本があり、自分の体の何倍も大きなマウイ島のHOOKIPAの波を攻めている日本人プロウインドサーファーたちの写真を眺めては「スゲーナァー」と思っていたものでした。その中の一人に岡崎友子ちゃんと言う女性がいたことは良く覚えていて、今回はそのマウイ在住の友子ちゃんと初顔合わせということで楽しみにしていた。 彼女たちが雑誌の撮影でマウイ島カアナパリからラナイ島のシップレック(座礁船)までカイトサーフィンで横断するので私はそのサポートを頼まれた。メンバーは友子ちゃんと同じくマウイ在住エリオット、日本からカイトサーフィンのプロ2名の計4名。距離は約20キロだが海況はサウススウェルと風が入り、どう荒れてくるかわからないというところだ。私は万一を考えてライフジャケットとウエットスーツをすぐに取り出せる場所に移動し、チャートでレックの場所を確認、GPSにインプットした。ラハイナのマナワーフの港で隣り合った船はラナイ島は荒れているので行かないとのこと。遥か沖合いにはウインドラインがすでに見えていて私の気持ちも少しひるむが、カイトやウインドは風がなければ話にならない。ここは「乗りかかった船」、行ける所まで付き合ってやろうと、カイトサーファーの待つオールドエアポートビーチまで向かう。 カイトサーファーたちは風の無いインサイドでは皆苦労していたが、私の船を確認し一人づつゆっくり沖に出てくる。私は全員にエマージェンシーの合図だけ確認させ、出発。さすがに皆上手いもので当初一番心配していた「大荒れの海の中でカイトを落としたら、果たして見つけられるか?」という懸念はあまり心配しないでよさそうだった。エリオットは私の船の起こす引き波でウエークボードをし、スプレーを派手に飛ばす。友子ちゃんはキックジャンプのような要領でボードを上手くスイッチしたりスライドさせたりしている。日本からのプロたちもカメラマンを乗せた私の船の周りで派手に飛びはねる。カイトサーファーたちの約3時間の競演はとても見ごたえがあり、派手なワイプアウトも無しにシップレックに到着した。カメラマンのヒロミはそこで水中ショットのために水に入る。私は波の割れる浅瀬で横波を食らわないように絶えずボートを操船し撮影の終わるのを待つ。思えばこのときが一番神経を使った時だ。撮影が終わりカイトサーファーたちが一人ずつカイトをたたみ船に乗り込む。そのとき一人のカイトが船の真上に落ち、ラインがプロペラに絡まってしまうアクシデントがあったが、スタッフのミワコがすぐに海に飛び込み事なきを得た。シップレック(難破船)でシップレックになってしまってはしゃれにならぬ。無事にマウイ島からラナイ島までの初横断を果たしたカイトサーファーをアロハカイに乗せ、穏やかな海面まで回り込み一気にマウイ島に向かう。目的を果たした4人のカイトサーファーはいい顔でくつろいでいる。港に着き心地よい開放感の中で皆でビールで乾杯。友子ちゃんとは同じ島に住む海好き日本人としてすぐに打ち解け、初めて会ったのが不思議なくらいだった。興味がある人は彼女が日記を公開してるので見てください。それを見ても横山泰助さんのこととかJack Johnsonとか価値観、思考が似ているのでニヤッとしてしまいます。 PS:以前から興味のあったカイトサーフィンはかなりファンキーなスポーツで面白そうでしたよ。時間が出来たら友子ちゃんに教えてもらおうかな。このときの模様はマリン企画の夏頃出版するカイトサーフィンの雑誌に掲載されると思います。 |
| 03年05月04日 |
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息子の13歳の誕生パーティーはコテージに友人を招いて寝泊りし、翌朝ウエークボードをしたいとのことだったので、コテージの空いている日、実際の誕生日より2週間ほど遅れて開催した。13歳と言えばThirteen、ついに悪名高きティーンネージャーの仲間入りだ。ウエークボードをやるなら招待する友達を6人くらいに絞れ、といっていたので、彼なりに海に強い学校の友達を6人ほど選んできた。我が家に来たBOYSは日本人系、黒人系、フィリピン人系、白人系と人種は異なるが一様に13歳なりに目いっぱいカッコをつけている。話すと、みんなシャイでメローな可愛いやつらで、妹のミカコは妙にハイになってBOYSの前でやたらにうろちょろしている。まったく分かり易い女だ。 ボーイズはDVDプレーヤーをコテージに持ち込み、ピザを食べながらMTVの作ったゲバゲバ90分(フルッ)のようなJACK ASSという映画を見るという。結構静かなので「こりゃ女よりよっぽど楽だわい」と思ったのもつかの間、真夜中近くなると外を走り回る音やドッタンバッタンとプロレスの音が聞こえてきた。私が「次の日早いから、もー寝ろ」と一喝すると「OK」と素直な返事が帰ってきたが、果たしてどうなったことやら。
急いでトラックにボートをつなげサーフボード、ウエークボード、ニーボードを詰め込み、トラックの荷台に子供たち7人を乗っけて港に向かった。海のコンデションは無風快晴、面ツルとこれ以上は望めないものだった。 まずはニーボードで引っ張られる感覚を覚えろと簡単に説明し一人ずつやらせたが、やはり年中海で遊んでいる子は上手い。難なくウォータースタートを覚え左右に板を動かす。次はショートボード、これは立つまでやや難しいが、数回のトライで片手でロープを掴み片手でボードを支えながらゆっくりと立つコツを覚えた。一度立ってしまえば上手いものでボートの作り出す永遠の波を相手にリッピングを繰り返す。 最後にウエークボードに挑戦。これは息子も出来ないので妻に操船させ、私がお手本を示す。ここはかっこいいとこを見せなければならない。難なく立ち上がり、ぐっと腰を落としバックサイドに走りロープにテンションを思いっきりかけエッジを効かせてフロントターン、そしてボートの引き波に思いっきり当てこみジャ〜ンプ、「どーだ、見たかぁ〜」とボートのボーイズを見ると勝手におしゃべりなどしていて誰も見ちゃいない。ま、そんなもんだよ、やっぱりよぅ。 存分遊んだ後にみんなでホットドッグを食べ適当に解散、夕方、波乗りをしたい子供は我が家にそのまま残った。こうして息子の13歳の誕生パーティーは終わったのだが、最近ではKマートやオールドネービーものなどは身につけたがらず、サーフショップや通販で高いスケボーブランドのTシャツなどを買い、落っこちそうなほどズボンを下げ、頭はディップでツンツンさせ、コーラ缶で作ったネックレスをし、ボブマーレーやエヌメヌ系ラップの入ったCDウォークマンをダカインのバックパックに突っ込み、ペイントスプレーで左右違う色に塗った靴を履き、スケートボードで近所のランプ(ハーフパイプ)に通い、年上の友人と交流を深める彼はこれからますます生意気になるに違いない。(フーッ、ちょっと形容が多すぎたぜ。) 以前Father Against Radical Teenager、略してF.A.R.T(おなら)なるバンパーステッカーを見て大笑いしたが、いよいよ私のトラックにも貼る時期がきたようだ。今思えば私達の中学生の頃は可愛かったよなぁ.なんせボタンダウンからBVDの丸首シャツ覗かせて、VANの紙袋でも持ってたら、もう誰にも負けなかったもんなぁ。 |
| 03年05月20日 |
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嬉しいことがあった。横浜時代の懐かしい友人が家族を連れてマウイ島まで遊びにきてくれた。.20数年振りに会う彼"TOMO"は、頭に白いものが増えていたが、笑うと十分昔の面影があり、いろんな事をぶっちゃけて話せるようになるまで、そう時間はかからなかった。「始めまして」と挨拶した奥さんに「初めてじゃないわよ!」と斬り返された。恐ろしいことに20数年前にサーフボードやスケートボードを満載し出かけた伊豆のハチャメチャ旅行で会っているらしい。あの時のミナミサオリのような可憐な少女はキ、キ、キミだったのか〜! 当時の事を少し思い出すと、多分我々の周りの男たちは全員が自由と若さと太陽の匂いのするリンダロンシュタッドとカリフォルニアに憧れていた。そしてTOMOは学校を卒業した後、自分の夢を具現化するがごとくカリフォルニア大学デービス校に留学した。私の初めてのアメリカ旅行は彼のキャンバスを訪ね、そこからもう一人の友人と一緒におんぼろワーゲンのハッチバックでテネシー州まで「自由を求めて」横断することだった。かっこいい!(なんせ自由とアメリカを探すことが流行ってましたからね。)途中車が壊れ私の「自由を求める旅」は資金不足のためコロラドで不自由に終わり(かっこわるい!)何百枚かのLP版を抱えて日本に帰った。今でも日本に帰るとカビだらけの当時のLP版に鼻をくっつけ涙する(ウソ)。とにかく、そんな1980年前後の思い出を共有している友人の一人がTOMOで、どちらかと言うと髪の毛を伸ばした(!)ひゃろっとしたヒッピー系(!!)の私に比べ、TOMOはいつも真っ黒に日に焼けた雷マークのボードが良く似合う逆三角形のバリバリモテモテサーファーだった。まったくよう。 そんな彼も今ではいくつかの会社の経営者で相変わらず横浜に住んではいるが忙しくてサーフィンは10年以上していないと言う。私は彼にサーフボードを持たせ一緒に海に入った。沖に向かいゆっくりと一緒にパドリングすると彼の顔がにやけてくる。そういえば日本社会じゃ大人が遊ぶのは罪悪っぽいが、こっちではみんな遊ぶために働いているんだぜ。 いい波を捕まえ戻ってきた彼の顔は何というか垢が落ち、すっかり当時のTOMOの顔になっている。そこからは会社も子供もカミサンも見えない。20数年の歳月が吹き飛び、マウイの海が伊豆の海に見えてくる。20年前のミナミサオリは一体何年ぶりに自分の男が波に乗っている姿を眺めたことだろう。 TOMOは日本に帰る前の晩に「マウイが気に入った。こいつら(息子たち)が独り立ちしたら、カミサンと一緒にまたこっちに住むからよろしくな」と結構真剣に嬉しいことを言って消えていった。本当にそうなったら楽しいものだ。 |
| 03年04月16日 |
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| 暇な時期に撮影の仕事の手伝いを頼まれた。ある企業の新製品のイメージVIDEOの制作だ。 私に与えられたミッションは「監督のイメージする水中を探し出す」という、まるで私のためにあるような仕事だったので、「うんうん、やるやる、わんわんわん」という感じで引き受けた。 仕事は我々が通常潜っている十数か所のポイントをビデオグラファーの竹内氏(以後タケサンと呼ぶがテイクオーシャンという会社をやっているなかなかすごい人なのだ)に撮影してもらい、それをコンピューターで監督に送り指示を仰ぐ、という方法で進めていったが、やはり圧倒的に評判がいいのはモロキニ島で、画像を通しても他のポイントとは水の抜けが違うのがわかる。 この時に、以前からちょっと気になっていた新しいポイントに潜ってみた。場所はタートルタウンのやや南で水深は6mほど。20畳ほどの大きな岩の上に十匹以上の亀が気持ちよさそうに眠っていた。ビデグラのタケサンはいささかコーフンして、「君たちはさー、見慣れているかもしれないけどさー、亀がさー、こんな風に人が来ても逃げないと言うのはなかなか見られない図なんだよねー」とやや鼻の穴を広げて語っていた。確かにマウイの亀は顔と顔をくっつけても逃げないので珍しいことなのかもしれない。 ニコニコ顔でゴキゲンなタケサンはその午後、撮りだめた画像と一緒に亀の画像を添付して送った。如何せん監督からCCで私に来たレスには「どこにでもありそうな良く見られる図ですね」と書いてあった。プ、ププーッ )^o^( ところで、元祖タートルタウンから船で5分のこのポイントを我々はタートルニュータウンと名付けた。「新亀さん小町」という訳だ。ここにゃ生きのいい亀さんが揃ってますぜ、ダンナ。 |
| 03年04月20日 |
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| この撮影の本番には小谷実可子さんが候補に上がっているという話をコーディネーターの人から聞いた。 「い、いいですねぇ」と冷静さを装った私だが、胸中どきどきしていた。実は数年前に彼女のドキュメンタリー番組を見てからすっかりファンになっていて、彼女の表情、トーク、感受性、水中の実力等々に「この人、いーなぁ、いつか会いたいなぁ」と気になっていたのだ。その会いたい女性ベスト5に入るであろうミカコ嬢に会えるのだ。電話を切ってから「う〜ん、撮影がいついつだから今から床屋に行くと変なアタマになるからやめよう」とか「当日はどの海パンとTシャツとビーサンと帽子でコーディネートすっかな」とか「娘の名前が同じミカコなので、話すきっかけとしては使えるんではないかい?」とか頭の中はまったくの勘違い男になっていた。 小谷実可子さんの出演が本決まりになり、私の役はなんと「サメを恐れている小谷実可子さんの水中ボディガード」と言うことになった。妙に張り切り「了解しました。身体をはってお守りします。」と答えたが、先っぽの曲がったモリしか持ってないので速攻で水中銃を買いに走った。 その晩、ミーティングをかねてスタッフ全員勢ぞろいの食事会で小谷実可子さんに始めてあった。実に楽そうな気取らない格好をしたコタニミカコさんの顔はとても小さくスレンダーだ。思い入れが大きいと言うことは邪魔くさいことで、私はチラチラッと眺めポッと赤くなっていた。にゃにゃにゃんとにゃさけない。 さて水中撮影だが、私の船が大まかな撮影場所を確保し、スタッフの乗った大型船から監督がモニターを眺めながら水中マイクで我々水中スタッフに指示を出す。小谷さんの水中演技はもう芸術もので、思わず仕事を忘れ見惚れてしまう。ゴーグルをつけての何回かの練習のあと、本番はゴーグル無しで力強く泳ぎ、スムースに回り、ピタッと止まる。そしてビデオカメラの前のその表情はイルカの様で口元と目元が密かに微笑んでいる。水温25度の海で水着1つで連日頑張る小谷さんはやはりプロで「すごいなぁ」と思いました。オリンピックのメダリストなんだから、きっとすごい努力家なのだろうが、ニコニコハキハキと与えられた仕事を確実にこなしていく感じだ。撮影の合間の休憩時間に大型船に乗り込み、2階のサンデッキに行くとコタニミカコさんとマネージャーらしき人がいた。海の上では不思議に自然と話が出来るもので、簡単な挨拶をし、僕等は軽口をたたきあった。するとその時「いっくよぉ〜」と下にいたタケサンビデオマンから声がかかった。まったく野暮なオヤジだぜブツブツブツと思いながら彼の顔を見ると、何と「ククククク」と目をモロキニ島にして笑っているではないか。ロケハンから一緒の彼は私の熱い胸のうちを知っていて下からニヤニヤ見ていたらしい。 と言うわけでモロキニ島で燃え上がった私とミカコ嬢の会話は3分ほどでモロキニ目のオヤジに引き裂かれ、私の切ない恋心は海の底に沈んでいったのだが、人魚のように美しい彼女の水中姿は私の目にしっかりと焼き付いているから、いいもんね〜。 |
| 03年03月18日(Tue) |
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| 今月の14日に俳人鈴木真砂女が96歳で亡くなった。真砂女とかいてマサジョと読むのだが、妻の祖母で銀座に「卯波」(うなみ)という小さな小料理屋を出していた。私も日本に帰るときにはちょくちょく顔を出していたが20人ほどで満員になってしまうその店は常に人生の先輩たちがカウンターを賑わし、明治生まれの鈴木真砂女とちょっと傾いたその店を愛しげに守っているような印象をもった。 彼女と初めてあったのは15年程前だと思うが、我々のカウアイ島での結婚式にも嬉々として参加してくれ、当時八十過ぎの年齢にもかかわらず緑の中を粋な着物で闊歩していた。オアフ島では「うまい、うまい」とTony RomasのBaby Libや「山源」のえびてんそばを胃薬を飲みながらわしわしと食べていた。今思えばあれが彼女にとって最後のハワイだったのだが、クジラと火山を見せられなかったのが今になって悔やまれる。 日本ではNHKの俳句講座の講師や数々の著書、瀬戸内寂聴の本のモデルなどにもなり、ちょっと名前が売れていて、文学座の娘に向かって「私のギャラで上手いもん食いにいこ!」などと可愛い憎まれ口をたたいていた。銀座松屋のモデルになった時は屋上から下に届くほどの大きな垂れ幕広告に真砂女の全身写真が使われ「おー、小さなおばあちゃんが大きくなった」と皆で喜んだものだ。 明治生まれの彼女にとって「男性は敬うべく存在」のようで私はいつもとても良くしてもらった。自分が病院に入院しているにもかかわらず「外においしいカツドン屋があるから、ここから抜け出して食べにいこ!」と目を輝かせて我々を誘いガツガツと食べる私を楽しそうに見ながら「ヒロシさん、ハワイにはこんなのないだろ」とニコニコしていたものだ。そういえば私は最後まで彼女の中で「海が好きな、眉の涼しい、ハワイに暮らす、100mくらいのクルーザーを持った、ヒロシさん」だった。なんどか「100mではなく、8mです。ヒロシではなくヒロユキです」と断ったはずだが、効果はなかった。「眉の涼しい」については、彼女の本の中で「青年斉田 眉 涼し」と読まれた句があるのだが、涼しい眉とはどんなものなのか、今となっては聞くことも出来なくなってしまった。 ベッドに縛り付けられた晩年も夢の中で清少納言と恋に落ちたり、医者がカッコイイとときめいたり、よろしくやっていたみたいだ。今十分に生きた身体から魂が解放され、再び自由になれたことを不謹慎ながら私は喜んでいる。90過ぎまで真っ赤な口紅をひくことを忘れなかった銀座に生きた明治女、鈴木真砂女の冥福を日本時間で通夜の今日、遠いマウイの地からお祈りします。 最後に献身的な看病をしながら文学座の公演中で親の死に目に会えなかった役者であり妻の母である「本山可久子」さん、長い間おつかれさまでした。銀座の店「卯波」は真砂女の孫で私の義理の兄、通称「MOONY」が引き続き守っておりますので銀座1丁目のお稲荷さんあたりに行った方はぜひ寄ってみてください。 |
| 03年02月27日(Thur) |
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| 「アラスカの川を下っているときの僕が10の力を出しているとすると、日本にいるときの僕は2か3くらいの力で生きている。日本の生活がそれだけ快適な訳で、それに対して文句はないが、一方、しんどい生活も悪くはないと思っている。 自己嫌悪に陥ることの多い日常だが、北の川を行くとき僕はとても素直になり、自分を肯定していることに気づく。そこではやりたいことを好きなだけやり、やりたくないことは一切しない。他人への配慮は皆無で、自己の快楽のみを追いかけて生きる。自分に降りかかったことはすべて自分のせいであり、他の誰のせいでもない。つまり僕は自由である。」 毎年アラスカを何ヶ月もかけてカヤックで下っている作家、野田知佑氏の「雲よ」という本のあとがきから抜粋しました。若い頃から世界を回り、筋肉と知性を磨いていくと正しい大人の男が出来上がるらしい。昭和13年生まれの著者の本と生き方にはいつもニンマリさせられるので、何となくここで紹介しておきたかった。 さて上の文とは全く関係ないが、今日は完璧なクジラのブリーチングを目の前で目撃したので日記にしたためておこう。湖のように静まった海からいきなり15Mくらいのクジラの体全体が青空の中に浮かび上がった。あまりにも現実離れした絵に一切の音の記憶がないのだが、ボートの横50Mくらいのところで10m以上跳ねて体全体を出し、スローモーションのように落ちていった図は脳裏にしっかり焼きついている。 それにしても強運なのは今日のクジラ見学の人たちで、なかでもマキ嬢は毎年クジラの季節になると毎日のように船に乗りこみ、子供や犬にまでクジラ系の名前をつけてしまっているクジラ狂だ。300ミリのレンズでクジラを撮りまくり、日本で現像してから私に分厚いプリント写真を毎年送ってくれる。彼女はどういうわけかクジラ運が強いので、船上では「君はクジラの好きなフェロモンを発しているにちがいない」と話題になり「でも男には効かないらしい」ということでオチがついた。 今日の絵に描いたようなブリーチング以降、私は彼女のことを「クジラ女」と呼び始めたのだが、まんざらイヤがってもいないのが可笑しい。 |
| 03年02月15日(Sat) |
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はい、このタイトルで高田渡氏を連想された方、なかなか渋いっすね。しかし今回は残念ながら音楽の話ではありません。キャプテン仕事は肉体労働のようなイメージがあるが以外と体は動かさない。しかし精神的に楽な仕事ではないので陸に戻るとほっとしてついつい昼からビールをグビグビッと飲んでしまう。そしてたんぱく質いっぱいの美味しいお昼ご飯を食べ、シャワーを浴びさっぱりしたところでエアコンを全開にし、お気に入りの本を読みお昼寝、という至福のパターンをここ数年続けていたら流石に必要ない肉が体のそこかしこについてきてしまった。 いかん、いかん、これではいかんとふと思いついたのが自転車。我が家のガレージには一昨年の誕生日にマウンテンバイクのオリンピック選手「湯本優」君がプレゼントしてくれた18段変則のえらく立派な自転車が眠っていたのだ。若干の修理とパーツ交換をし試乗に出るとこれがすこぶる調子いい。今までは疲れてタラタラとしか登れなかった坂もフフーンと鼻歌をうたいながら登れる。下りはギアをぐっと重くして「ここで転んだらやばいよなぁ」と感じるくらいの結構なスピードを楽しめる。性能はかなりピーキーでちょっとブレーキのかけ方を間違えるとすぐに転びそうになりおっとっとと歌舞伎役者のようになってしまう。しかし、まあ、人間とは学習する動物で最近ではかなり上手にこの暴れチャリを乗りこなすことが出来る様になってきた。 車や人が多い通りはなるべく避け住宅地などを好んで走るが今まで何気なく通り過ぎていた場所もゆっくり走るだけでいろんな発見があリ結構楽しい。手作りバルコニーやツリーハウス、展望台、BBQコーナー、ジャクジィなどを眺める度に「いいなぁ、うらやましいなぁ、どうやって作るのかなぁ、いいアイデアだなぁ」などとじっと見つめてしまう。そして時にはPiilani Hwy や South Kihei Roadも走るが、この辺の道路は友人に見つかり冷やかされる恐れ大なのでちと恥ずかしい。今度はTシャツとビーサンからピッタシハデハデポロシャツとモッコリピッタシバミューダパンツを履いてバリバリ自転車野郎に変身してやろうかな。 自転車に乗っているともう1ついいことがある。頬に当たる風と飛んでいく風景とポンプされた心臓が妙にシンクロし、とてもハイな気持ちになれるのだ。きっとスポーツしようよ、と薦めている人たちはこの気持ちよさを伝えたいのだなと思う。そんな気持ちのいい瞬間には西海岸系のドンヘンリーやJDサウザーなどの音楽をBGMに欲しいものだが、油断をすると「おっかのうえ、ひんなげしのはんなが〜」などと口ずさんでしまう自分が悲しい。 |
| 03年01月24日(Fri) |
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| 実は下の1月4日に書いた「New Year's Resolution」とは「2003年は禁煙するぞっ!」ということでした。そのときに白状していないのはきっと自信のなかった証拠ですね。そうかれこれ3週間以上タバコを吸わない生活をしていますが、ここになって「ウン、良い感じ」と思えるようになりました。 ことのきっかけは「2003年からマウイ島のバーやレストランでタバコが吸えなくなる」、「ニューヨークではタバコが1箱7ドル以上、ハワイもいづれそうなる」というのが2大要素だったと思う。そこで「来年からタバコを止めようかな」とボソッというと、子供たちからは「Yeah〜」という歓声、意外なことに数人の友人からは「んじゃ、一緒にやめるか」という協力モード。そうなると「ヤベッ、とんでもないことを言っちまったかな」とちょっとあせったが、タバコにコントロールされた生活とおさらばしたいなと常々思っていたので大きな深呼吸を一つして「よし、来年から本当にタバコを止めるぞ。」と宣言をした。「ついては相棒の君もやめんだかんな。」ときょとんとしている奥さんも無理やり禁煙の道に引きずりこみ、偶然そのときに日本からきていた友達にも「木下君、ミッチ君、来年からタバコを止めよう。ちょっと金かけてさぁ」と提案する。すると以外にも「いいよ〜、やめようか」という返事があっさりと返ってきたので、ここに2003年禁煙レースがスタートした。 10年程前はニコチンパットなるものを身体の一部に貼り1ヶ月ほどやめたことがあったが、肌は荒れて痒くなるし、普通肩などに貼るのだが海の仕事をしていると結構それがみっともないので、お尻の見えないところに貼ったりしたが、やっぱり痒くなりいつも無意識にお尻をぽりぽり掻いているケツポリニンゲンになってしまった。そして何よりパットを貼ってもやはり口寂しいので年中口になにかを加えたり食べたりしていた。そして最後にはニコチンパットを貼りながらタバコを吸い、「う〜ん、マンダム」(←ふるっ)などと訳のわからない行動に出て私の10年前の禁煙はあえなく敗れたのだ。 そして4年程前にはインターネットのポップアップ広告で「タバコ止めるのギャランティ、もしくは1ヶ月以内なら全額返金」という文字に惹かれ禁煙キットなるものをつかまされた。これは何かというと、「精神を安定させるハーブの香り」の液体でした。タバコを吸いたくなるとこれを鼻からハフッハフッハフッと嗅ぎ、精神を安定させタバコのことを忘れさせるらしいのだが、これはだまされた。ぜんぜん効かないし、いちいちそんなに面倒なことをやってられない。それに第一おしゃぶりを欲しがる赤ちゃんの用でみっともない。 それでもこのときはハーブを使わずに自分の意志で3ヶ月ほどやめたんですよね。で、禁煙できた→問題ない→だから1本だけ頂戴→やっぱもう1本…と安心した頃にまた吸い始めてしまったというわけです。 そして今回私が選んだ相棒は「ニコレット」。つまりニコチンガムです。これを年の明ける前に一人Costcoで仕入れ、「禁煙で儲けるぞ大作戦2003」を立てた。実は負けた人は200ドル払うことになっているのでもし二人失敗すれば400ドル、3人失敗すれば600ドル入ってくるのだ。そして年末カウントダウンの日から口の中でクチャクチャしながら600ドルはオレのものよ、とほくそえんでいるのだが以外に皆しぶとく満月2回分も月日が経ってしまった。本当はここまで来るとお金より皆で禁煙を成功させたいという気持ちのほうが強くなってきているのですがねぇ。 2003年禁煙レース参加者の皆さんまだまだ油断してはダメですよ。友人は「タバコを止めて8年経ったが、今でも時々吸いたくなり夢を見る」といっていました。頑張りましょうぜ。 最後にニコレットの感想を書いておきますと、苦労、我慢が美徳にならないこの国で認められただけあって「意外に良い」です。これは口に入れるので間食も出来ないし、ニコチンが体内に入るので渇望がない。それで3週間を過ぎた今では1日1個噛むか噛まない程度になっています。まあ意志の強い方には必要ないでしょうが、我慢は辛いので使える道具は使いましょう、というのが私の考えです。ちなみに私の奥さんは何にも使わずにあっさりと禁煙しています。 |
| 03年01月16日(Thurs) |
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| ここ数日間海が荒れ、船をキャンセルしていたのだが、今日は何とかなりそうだと判断しボートを出してみた。遠い西側の水平線が少しパチャパチャしているのが気になったが沿岸の風は大分収まっている。ダイビングコンデションの方は風がもたらしたうねりで頭くらいの波が発生しているので浅い場所の透明度は期待できないだろう。 こういうときに強いのが沖にぽっかり浮かぶモロキニクレーターで沿岸の浅い場所が荒れても大体は潜ってしまえば極上の透明度が待っている。しかしこの日の沖合いの風は私の予想をはるかに越え北西の風は40ノットを記録し、モロキニ環礁の内側は大洗濯機状態になっていた。モロキニの裏側に回り何とか風をブロックできる場所を見つけるが多くのダイブボートが狭い範囲にひしめきあっている。それでもこの場所が唯一安全に潜れる場所だろうと判断しダイバーを下ろした。 そして数分立つと風が不気味にシフトしだしアロハカイをすっぽり包みこむほどになった。風速はさらに強まり海面は真っ白で何も見えない。こういうときのダイバー待ちの時間というのは永遠に感じる。横風と横波を受けないように絶えず操船しながら目を光らすと米粒ほどのダイバーがほぼ予想どうりの所に浮上してきた。「こっちに泳げ」と大声で指示したがダイバーのキックなど話にもならず、モロキニ島の岸壁に再び流されはじめる。私は船からロープを投げ、ダイバーたちを安全な場所まで引っ張り、そのまま船上に引きずりあげた。操船とダイバーの安全に悪戦苦闘している私とは裏腹に水中はとても穏やかで綺麗だったらしく、「綺麗だったね。クジラの声が聞こえたね。上がって来たくなかったねぇ」とダイバーの顔はふにゃふにゃと嬉しそうだ。 私は「ダイビング楽しくてそりゃよかったね、こっちは大変だったけどさ」とは言わず、なるべく穏やかな顔でのんびりできる海況まで速やかに移動し、一息つく。このときこそ今年からはじめた自分自身の禁煙条例が恨めしかったことはない。 今日は久しぶりに海の神様に軽くいたぶられた1日でした。船を出す、止める、出しても潜らず港に引き返す。全ての判断は私にかかっている。今日の場合は前日にキャンセルし明日帰るというダイバーだったので少々無理をして船を出した。するとダイバーが潜っている間に天候がますます悪化し始めた。結果OKでお客様にもとても喜んでもらえたが、私的には反省の残る1日でもあった。 船を片付けた後にサーフボードを抱え近所の海に波乗りに行った。少々波が大きくてもこういう沿岸の遊びはやはり平和なものだ。私はへらへらしながら頭からワイプアウトを繰り返した。 |
| 03年01月04日(Tue) |
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| さて内輪だけのクリスマスパーティーが終わり、30人ほど集まった私の誕生日が終わった。こんなに簡単にさらっと流してしまっていいものかと思うのだが、まあ、いいのだ。参加してくれた皆様、お祝いメールをくれた皆様、どうもありがとうございました。KANAちゃん、OLEのサーフボードありがとう。立派な不良親父を目指します。 暮れの夜はダンゴ(人間です)とちびちび日本酒を飲んでいるうちにすっかり眠ってしまったようで、10時頃に起こされた。寝ぼけ眼のまま20人ほどでいつもお世話になっている近くの海に向かい、日本から密輸(?)したロケット花火でYoshiG君を狙ったりしているうちに目も冴えてきた。計画性のない我々の花火遊びは当然派手な奴から無くなっていき、カウントダウン10分前にはちびた線香花火などを片手に指をくわえてお隣の花火を見物する羽目になった。毎年のことながら学習しないものだ。お隣さん覗き見花火の圧巻はカウントダウンにあわせ夜空に向かってシュートした何十本のナイアガラ(いやあ、よく名前を覚えていた)で、私は「EEEHHHHHAAA!!!」などと叫びコブシを夜空に突き上げ2002年とさよならした。 興奮も収まった新しい年は正しい正月日本人として伸ばした背中を少し丸め腰も少し曲げながら「いやぁ、どうもどうも、いやどうも」などとよくわからない挨拶を皆と交わしシャンパンの栓を抜いた。まずは昨年に続きいつも世話になっている海に注ぎ、それから「今年もよろしく」と皆に回し新しい年の幕開けを祝いました。 追伸:今年はHOLOHOLOと流されて生きてきた私の脳みそにNew Year's Resolutionなる杭を一本打ち込んでみたのだが、果たして結果はどうなることやら… |