ホロホロエッセイ2005年
05年12月02日
同胞(はらから)

一年ぶりに訪れた日本からしっかり風邪を引いてマウイに戻ってきた。友人のウノから魚のうまい伊豆の旅館に1泊し親交を図るのでぜひ出席してくれ、ついでにコンパニオン嬢が欲しいか否かのアンケートもとる、とへんてこな誘いのEメールが届いたのは10月の頃だ。コンパニオン嬢はともかく50歳を目前にして青春時代をどっぷりと付き合っていた奴らに久しぶりに会うのも悪くないという気がしたのでオアフ島にいる昔の仲間に連絡した。「どーする、ワタル、行ぐか?」「おー、こんな機会はめったにないから行ごーぜ」と我々はすでにやや興奮し昔のようにイゲバ、イグトキ、イグカラ、イガネバ、イゴーゼの横浜漁師言葉五段活用(?)を連発しはじめた。

2005年11月26日、よく晴れた秋空の下、伊豆の北川(ホッカワと読むのだ)の立派な旅館群を抜け突端にあるなんだかちょっと寂しい宿にマウイ島、オアフ島、箱根、横浜、横須賀から高校時代毎日のようにつるんでいた仲間が集った。数えてみるとなんと28年ぶりだ。メンバーはマサル、ワタル、ノバーキ、ウータン、モリタ、ツヨシ、そして私の計7名。本当ならここにもう一人ジュンボーが居なくてはいけないのだが残念ながら奴は激しく短い生涯を一人で閉じてしまったのでツヨシが彼の墓に行き今日の報告をしてきたらしい。「俺の肩にジュンボー乗っけてきたよぉー」といつものつまらない冗談を飛ばした。

宿で一息ついて宴の席になると高校時代一番悪かったノバーキが今回のテーマは「つぐない」だといってみんなを笑わせた。この年代になると我々が昔どのくらい親に心配をかけていたかが身にしみてわかる。毎日オートバイを乗り回し家になど帰らなかった頃の話だ。特にノバーキは今でこそ立派な公務員になっているが昔から喧嘩っ早くとても危ない奴だった。今回は何かあるたびに「オメェ昔のことをちくるぞぉ」とマサルに脅かされているのが妙に可笑しかった。


宿のおいしい料理と楽しい宴会の後は二次会に行くと言う。そういえば先ほど露天風呂に行ったときに「照海」とかいう鄙びたスナックがあったな。やや嫌な予感がしたがやっぱりそこだった。ドアを開けると髪の毛巻き巻きおばちゃんが「あまぎぃ〜ごぉ〜え〜」とゴジラが火を吐くように熱唱している。周りではその仲間のギドラやカネゴンがやんややんやと拍手をして盛り上がっている。ハワイに住む私やワタルはこのような情景に一瞬躊躇したが我々の仲間はこんなのには慣れているらしくずんずんと店の奥に入っていく。怪獣一味の歌が終わりマイクが我々に回ってくるとノバーキが渋いフォーク演歌のようなものを歌いだした。すると見たこともない地元の酔っ払い親父が何を思ったかいきなりノバーキの後ろに陣取り後ろから人差し指でエイヤッとウグイス攻撃(お尻の穴を突っつく奴ね)をしかけた。ノバーキが「なんだぁ?」と親父に鋭い視線を投げたので我々は一瞬ハッとしたが「やだなぁ、勘弁してくださいよぉ、先輩」と軽くいなしたのでほっとした。昔だったらあれで間違いなく店をひっくり返す大喧嘩になっていたはずだがみんな成長したものだ、良かったなぁ、ウグイス親父。カラオケに疲れた私とマサルは店を適当に抜け出して真夜中の露天風呂に忍び込んだが残念ながら水を抜かれていた。仕方がないので細い月を見ながら旅館にブラブラと戻り一瞬で寝てしまった。

翌日は6時前に目覚めたので昨晩の仇とばかりに一人で海辺の露天風呂に行ったが三つある露天風呂はどれも以外に早朝から混んでいて面食らった。よく見るとタオルを胸まで巻いた女性も何人か居るのでアメリカ在住二十何年すでにスッポンポンのヒロキチはヒェ〜と心の中でびっくりびっくり、彼女らに背を向け落ち着かない気分で大島の後ろから昇ってくる日の出を女性陣が去るまでずっとずっと拝んでいた。ようやく露天から開放されると旅館のまん前の広場で漁師が定置網で捕まえた魚を卸している。マグロにシイラ、ヤガラにマンボウ、モンガラカワハギにバラクーダー、その他いろいろすごい量と種類だ。この辺の海は以外に豊かなんだなぁとモリタがぼそっとつぶやいた。宿の主人が捌いてくれた今朝捕れたその魚をおかずにうまいうまいと朝食を3杯お替りし満ち足りた気分でゆっくりと旅館を後にした。そして私の希望で南伊豆までのドライブ(運転してくれたモリタ、サンキュ)帰りは長い長い動かない渋滞の中を抜けてマサルの管理する箱根の山荘に到着し、やがてそれぞれ解散、自分達の生活に戻っていった。


久しぶりに会った仲間たちは外見こそ年相応に老けていたが中身はあんまり変わっていなかった。来年はハワイでやろうぜと盛り上がったときマウイ在住の私は「おー、いいねぇ、オアフ島なら安いぜぇ。」オアフ在住のワタルは「やっぱマウイだろ、マウイノカオイ」とお互いに譲り合っている。コンパニオンの有無をアンケートで聞いてくるようなこいつらはどう考えてもハワイの絵とマッチしないんだけどなぁ。

今マウイ島に戻りこれを書いているが鈍った体は3キロも太ってしまった。危険なので軽く波乗りを2時間ほどしてきたところだ。実は今晩イーグルスがマウイ島でコンサートをやる。めったにない小さな野外会場でのコンサートだ。残念なことに料金は250ドルもするので仲間とワインを持って隣の公園で寝っころがって星を見ながらただ聞きしようと思っている。70年代の友の元気な姿も見れたし良い気分だ。ピースフール イージィー フィーリンー♪ってか。

05年09月16日
The Day
朝、いつものように港に行くと、海が大きくうねっている。コンピューターの波予報で南からの大波が来るのは知っていたが西ではなく南のうねりでキヘイボートランプがこんなにうねるのは珍しい。無理をすれば出港はできたが、これではモロキニ島に行っても透明度はかなり悪いだろう。ダイビングには適さない危険なコンデションということでお客様に納得してもらい(港で割れる大波の前なので説得力はある)ボートをキャンセルした。家に戻るとマアラエアのコンドミニアムに住む友人から「目の前の海が大きく割れていますよー」と電話があった。彼女は全てのサーファーがうらやむような場所に住んでいるのにもかかわらずサーフィンはしない。しかし常日頃から「もし目の前の海がわれたら必ず電話をするように」と言いつけてあったので忠実な犬のように「何だかすごい事になってますよー」と連絡をくれたのだ。褒美に大きな骨を上げなければ。彼女の家の前はマアラエアのフライトトレインと呼ばれるポイントで南の大きなうねりでと年に何度か顔を見せるチューブは世界最速のライトと呼ばれ、この場所が割れると他の島の腕自慢のサーファーもわざわざ飛行機に乗ってやってくるほどスペシャルなポイントだ。

私は大砲のような600ミリのレンズを担ぎ、妻にはビデオを持たせFreight Trainに向かった。ポイントにつくとすでに多くのギャラリーが歓声を上げながら抜けてくるサーファーやつぶされるサーファー、冬のノースショアのような巨大セットに大歓声を上げている。パックリと口を開けた出口の無いチューブが次々とサーファーを飲み込み私の目の前には真っ二つに折れたサーフボードが次から次に流れてくる。横で写真をとっていたバジーカーボックスに「この波はどのくらいのサイズ?」ときくと「最低でも8フィートはある。前回マアラエアでこのサイズを見たのは1985年だぜ」とジョーズに挑むバジーでさえも20年ぶりの大波に興奮を隠せない。夢中になって写真を撮っているとバッテリーが無くなってしまったのでひとまず家に戻ることにする。電池の充電中に数日前からやっているフローリング張替えの仕事を一人でシコシコとこなしていると学校を終えた息子のカズマが友人と一緒にマアラエアのFREIGHT TRAINに行くと電話が入る。「おいおい大丈夫かいな」とやや心配しながら充電も終わったので再度カメラを担ぎマアラエアに向かった。さすがに息子と友人はプロサーファーだらけのピークではなくショルダーの最後の方でおこぼれ波を狙っている。それでもダブルオーバーの波が時々はいってくるので親の心臓には良くない。横でビデオを撮っている妻が大きな波が来る度に「その波には手を出すなぁ」と大声で叫んでいる。巻かれて姿が見えないと心配になって周辺を探し、姿が見えるとホッとする。恐れを知らない子供時代はサーフィンもぐっと延びる時期だ。大波にチャレンジしたがる子供に「だめだ」というより「気をつけろ」というしかない。私自身は波がここまで大きいとつゆほども入りたいとは思わないしボンガパーキンスでもない限りロングボードで走れるような波ではない。ショーガナイ事だが知らぬ間に子供の無事をハラハラしながら見守る損な役割になってしまったものだい。

子供たちは真っ暗になってから無事に家に戻ってきた。皆で写真やビデオを見るとあらためて波の大きさに驚いてしまう。ちなみに1日たった今日もうねりが残っているので本当に残念だがボートはキャンセル。私はすみませんとお客様に謝り後ろを向いてニヤケル。さて波の小さいラハイナにサーフィンに行こっと。
05年09月03日
1枚の写真
SUMMER 2001
左の写真は4年前にマウイ島のラウニウポコで撮られたもので、左から息子のKAZUMA、私、舎弟のジュリ、カツヤ、ユージ、そして妻のカナが並んでいる。KAZUMAはまだ※ハナバタデイズでジュリ、カツヤは高校生、ユージは中学生の頃だろう。この頃キッズ達は車の運転ができないので我が家に合宿し飯を食わせ毎日のように15人乗りのでかバンに彼らを乗せスクールバス状態で海に連れて行っていた。ほんの数年前のことだが今思うとまだ海も空いていて、右と左のポイントに暗黙の規律があった良き時代だった気がする。


時は流れ子供たちもそれぞれ運転免許を取りカリフォルニアやマウイなどに留学し、自分の人生に幾許かの不安を抱きながら怒ったり笑ったり落ち込んだり喜んだりを繰り返して海と共に成長して来た。変わらないのはサーフィンに対する情熱で朝の5時頃から起き出し海に通いつづけている。サーフィンも上達し大会でもそれなりに結果を残すようになってきたが一番嬉しいのはこの頃の絆が今でも続いていて夏になると我が家に集まってくれ、今度は自分達より下の子供たちの面倒を当然のように見てくれることだ。彼らの身体は海に鍛えられしなやかだが、精神的にもとても健康だ。これでいい波をすべて私に譲ってくれるならもっと誉めるのだがこのくらいにしておく。

SUMMER 2005
この夏我が家に飾ってある上の1枚の写真を見つけ、また皆で撮りたいねぇという話になった。そしてジュリがカリフォルニアに帰る当日に我が家の庭先で即席で撮ったのが右の1枚だ。残念ながら四国の大会に出ているユージは不在だったが一番チビだったKAZUMAが一番でかくなり私とジンボの腹回りが大きくなりミニチュアダックスのバカナルと娘の海香子が加わった。カツヤの背は相変らず伸びてない2005年の夏の写真だ。次は2010年にこの写真を撮りたいと思うが、その頃はみんな何をやっているのだろう、楽しみにしている。

※ハナバタデイズとはハナタレ小僧時代のこと。こっちでは鼻水がBUTTERのように見えるらしい。
※四国で行なわれたサーフィン大会「スチュアートカップ」でユージは3位になったらしい。おめでとう。
05年06月27日
夏休み
こっちの子供達は6月から3ヶ月間の長ーい夏休みに入っている。顔見知りのじっちゃんばっちゃんサーファーも本土から来た孫相手にサーフィンを教えたりしている。波の良い日は欠かさずにいる私よりちょっと年上かな、と思っているシルビアおばちゃんに「ハーイ、ヒロ、これは私の孫のホニャララ(名前は忘れた)よー」と紹介されたので、「ようこそマウイへ、君達もおばあちゃんにサーフィンを教えてもらうのかい?」と聞くと「NO,波は怖いわ」とギャラリーに回り毎日おばあちゃんの波に乗る姿を見学している。海の中で「シルビア、孫は何人いるんだ?」と聞くとちょっと恥ずかしがってから「19人」と応えたからビックリしてしまった。なんでもシルビアの地元では湖しかないので孫達は波を怖がるらしい。でも食い入るようにおばあちゃんの波乗り姿を見ているので学校に帰ると「私のマウイのおばあちゃんはリップするのよ」くらい言うかもしれない。マウイにじっちゃんばっちゃん、親戚などがいて長く遊べる子供達は幸せだ。親が「マウイのばっちゃんのところに遊びに行っておいで」などというと子供達は「イェーイ」とくるだろうし親も「しめしめ、のんびりできるわい」というところだろう。ただしマウイのじっちゃんばっちゃん達は孫に囲まれているこの期間はタバコも酒も控え正しい大人のふりをしなくちゃいけないかもしれない。頑張れ〜

我が家の子供達もそれぞれ友人の家に泊まりに行ったり泊まったりで楽しそうに夏休みを過ごしている。特に息子はショートボードとスケートボードを持ち出し何日も家に帰ってこないのでたまに帰ってくると「お、久しぶりじゃん」という感じだ。半分自分の羽で飛び始めている彼の生活は波を中心に回っていて親や友人、ヒッチハイクなどあらゆる手段を使ってマウイ中を遊びのゲレンデにしている。先日あまりに日に焼けた髪の毛が長くて汚いので「お前、そろそろ髪の毛切れば」と言ったら「No Way」と一蹴された。そういえば自分も高校生のころオヤジによく同じ台詞を言われ右から左に聞き流してたなーと思い出しイカンイカンと苦笑してしまった。この年代はスタイルが命なのだ。

さてそんな息子を今月末から日本とオアフ島に一人で送り出す。といってもそれぞれの場所で友人たちのサポートは万全なのでいい経験をしてくるだろう。ちなみに我が家の娘の夏休みはこれといった目標もなく「ねー明日は何して遊ぶ?」と毎日まとわりついてくるので私ゃモーターイヘンの林家三平。
05年04月12日
K.I.S.S.
キャプテンである我々の仕事の一つはいかにゲストに快適に海で過ごしてもらうかだ。道の無い海では風と波を読み、なるべく船の揺れない角度とスピードで目的地まで走り、穏やかな水域を見つける。
海が湖のように凪いでいるときには「行ってらっしゃい」とガイドとゲストをニンマリと水中に送り出し、45分前後の自由を味わう。殆どはキャビンの中に横たわり好きな音楽を聞きながら読書、暑くなると海に飛び込む。回りには360度遮る物は無く、抜けるように青い空と海に挟まれてこれ以上は望めない申し分ないオフィス環境だ。
逆に海が荒れだすと震度7の地震の中の小部屋にいるようで私の小船は前後左右に揺さぶられ波を絶えず被りダイバー達が浮上してくるまでの間常に船首を風上に向けるように操船しつづける。こんなときは地面の上にしっかりと建つオフィスがとても羨ましくなる。そんな荒れた海から港に戻り、地面に一歩足を踏み出すととてもフラフラする。アメリカではこれをSEA LEGという、わかりやすい。

常日頃から信頼できるコンピューターサイトで1週間ほどの波、風、うねり、気圧配置をチェックしているが、ローカルウエザーは近場の山にかかる雲の多さ、高さ、水平線のバンプ(デコボコ)、風向きなどを総合判断して海を読む。しかし絶えず風向きや風の強さが変わるときなどはとても判断に苦しむ。海は荒れているが透明度の高いモロキニ島に留まるべきか、水中の潮の流れはどうなのだろう?波で透明度が悪いのはわかっているが海が穏やかで風をブロックできるショアサイド(浅場)に移動するべきか。モロキニ島内でも表に行くか、裏に行くか、東寄りに行くか西寄りに行くべきか悩む。天候は絶えず変わっていて読めないので、最後は我々キャプテン仲間がよく使うKISS作戦でいく。つまり考えてもわからないのでいつものようにやろうぜ、Keep It Simple, Stupidというわけだ。当然外れることもあるし当たる事もあるがウダウダせずに開き直れる。「わかんないからショーガネーノ、簡単に考えろよバカタレ」作戦だ。アメリカ人はこの辺の割り切りが上手い。日本人も分んないときはそんなに暗くならないでもっとこの大らかなKISS作戦を使ってみるべきじゃないでしょうかねぇ。
05年03月10日
No More Reveale
今日は休みなので昨日のフィルムの残りを撮ってしまおうとシュノーケル用具をセットしてワイレア方面にドライブした。天候も海況も良いしウキウキと遠足気分だ。ワイレアに到着すると予想はしていたもののウルアビーチはとっくに駐車場が無く早朝というのに海の中にはすでに十人以上入っていた。「やっぱ、今はハイシーズンだしなぁ、まぁ皆楽しんでくれよ、わたしゃ他に行くからいいよ。」とこの辺はまだ良い人だ。そして南に下りアヒヒベイを目指した。到着すると海際の私の駐車場(勝手に決めているのだが)はすでに空きが無く遠い場所に停めなくてはならなかった。「ずいぶんアヒヒも有名になったものだぜ。」とやや皮肉君になったがまだそれほど悪い人ではない。大きなハウジングをよっこらしょっと下げながら歩いているとコンパクトカメラ全盛のこの時代にアメリカ人がギョッとして視線を浴びせてくる。ピーカンの青空で波も風も無く穏やか、全くの水中撮影日和だ。海に向かって右側のエントリーしやすい場所から沖合いのあるスポットを目指す。過去に何度か「む、こいつはどっかいいポイントを知ってそうだ」と観光客に海の中をどこまでも付いてこられ辟易した事があるので誰とも話さず目も合わさず一目散に進む。今日は広角レンズで撮影予定なのでできることなら周りに人はいて欲しくないのだ。無事にポイントに着くと真っ白な砂の上に何十匹の黄色いヨスジフエダイが身を寄せ合いそこに数匹のアオウミガメが平然と横たわり視覚的スパイスを効かせている。水面の波紋が太陽の光を通して白い砂の上にきれいな模様を落としている。透明度も申し分なくそこに水があるのを忘れてしまいそうだ。どうしたらこの気持ちよさを伝えることができるのだろう。

パラダイスを覗き気分を良くした私はその勢いでイルカを探しに更に南下。ラ・パルース湾を目指す。数年前まで途中の溶岩道では殆ど車とはすれ違わなかったものだが、MAUI REVEALEDというガイドブックが発売されて以来ぐっとこの道が混むようになった。ラ・パルース湾に到着すると目的のイルカには会えず、かわりに溶岩の道をレンタカーが埋め尽くしている。そのまま車をUターンして戻るが、狭い溶岩道のそこかしこに無秩序に駐車されたレンタカーのせいで、対向車が来るとその度にどちらかが止まって譲り合わなければ走れないような状態になっている。おまけに前の車はお腹が空いている私の事情などお構いなく(当然だが)、浮かれ気分でとろとろ走っている。ようやくワイレアに入り道が片側2車線になるとさっきまでの良い人モードはすっかり吹っ飛び、グワーッと6300CCのエンジンを唸らせメインランダーズレンタカー軍団を片っ端からごぼう抜き、すっかり嫌な奴モードになっている。

私をいらつかせるのはここに住む住民のことを考えずに自分たちの利益と引き換えに宝石のように静かに輝いていた多くのローカルズフェイバリットとも言える場所を暴きトラッシュにしたMAUI REVEALEDの著者とガイドブックの存在だ。これを購読する読者には何の罪もないことはわかっているし、観光を否定しているわけでもないので誤解しないで欲しいが、もし、あなたが安らげる場所、例えばあなたの町の可愛い小さな公園や桜の小道、またザリガニのいる池や釣りをする小川がいきなりガイドブックに紹介され観光客でいつも混みあうようになってしまったらどう感じますか?あなたが税金を払い慈しんでいる町に落ちるのは喧騒とゴミです。マウイリビールドの著者がサーファーであれば、もう少しローカルとビジターの関係を真剣に考えて本作りをしたかもしれない。数少ない波を取り合うサーフィンではどこのポイントでもローカルとビジターの関係はシビアで真剣に考えている。人が増えてはローカルが楽しめなくなる場所や危険になる場所は雑誌やビデオでもシークレットポイントとして詳細は明かしていない。この本を作ったアンドリュー何がしにもそのくらいの配慮が欲しかった。もしかしたら彼はサーファーかもしれないが、そうであればきっと前乗りをバリバリしながら「みんな楽しいねぇー」などとほざく勘違い野郎に違いない。

大工をやっているハワイアンの友人が「開発に反対しながらも、こんな仕事をやっていて恥ずかしい」と私に呟いた事がある。気持ちはわかる。私だって観光業で生活させてもらっているのだ。胸が痛い。もしかしたら我々はマウイ島の急激な変化に対応できず過敏に反応しているだけかもしれないが、この島に残る美しい自然や安らげる場所を次々に暴露(Reveale)する本が本当に必要だったのか?今となっては面影もないがかつてのタンタラスの丘はローカル達が静かに愛を囁き、ハナウマ湾は椰子の木陰でエルビスがウクレレを爪弾くのが様になっていたような場所だったのだ。
05年02月05日
Life Goes On
数日前に10年来の友人家族が日本に帰った。子供の構成も年代も殆ど同じなら在米生活20年以上でアメリカ本土からマウイ島に引っ越して来たという経緯も同じ。妙にウマが会い深い話ができる貴重な家族だった。その彼らが20年以上のアメリカ生活にピリオドを打ち日本で人生を再スタートをする。持ち家を売り最後は我が家のコテージに入り、2日前にカフルイ空港から旅立っていった。
波乗り好きな夫Tちゃんには「日本の海は寒いよー」、買い物好きな主婦Yちゃんには「電車の切符買うの難しいんだよー」と脅したが決断は固く別れの日は否応無く1日1日近づいて来た。個人の別れはたくさん経験しているが、ある意味肉親より仲良く付き合い、助け合ってきた一家と別れるのはかなり辛い。よちよち歩きのころから見守ってきたお互いの子供達の成長を一喜一憂しながら一緒に眺めていくものだと思っていた。

しかし感情に流されるほどお互いに子供でもおセンチでもないのでここは彼らの決断をリスペクトしこの島からエールを送ろう。日本語が苦手な子供達は最初は苦労するだろうが、この島が育てた真っ直ぐでピュアな心を忘れずに頑張って欲しい。

最終日は仕事だったのでひっそりと早く家を出ようと思っていたが、彼らの飛行機の方が早く我が家から見送る羽目になってしまった。朝の6時から涙でグチャグチャの顔で最後の別れを言いに来た友達や親友と離れ離れになる子供達の小さな胸の内を思うと、どうにも切なかったが時は来た。カフルイ空港から飛び立っていった彼らは飛行機の上からどんな気持ちでこのマウイ島を眺めたのだろう。

日本に着いて2日後の彼らから先ほど電話があった。「ここは想像以上に寒く、娘は時々ひっそりと泣いている」とのこと。その話を聞いて妻はまたもやグスングスンと弱っちくなっちまった。