ホロホロエッセイ2006年
06年12月05日
妻の領域、私の領域

目の手術をして海仕事を1ヶ月ほど禁止されているので最近はすっかり家に閉じこもり君になっている。写真が本邦初公開(?)ゼロのオフィス&居候部屋だ。実は1時間ほど前まで正面の机は右の机と仲良く並んでいたのだがブラインドを閉めてもハワイの強烈な光が私の目にまぶしいのでさっき発作的に正面に動かした。ここだと庭のブーゲンビリヤもよく見え第一まぶしくない。1人で移動したのだがフローリングの床なのでさして労力もなくスイスイと動かせた。まあこれがカーペットなら1人ではやらなかった仕事だが。

家具を動かし妻が窓ワクに置いた細かい飾りを全て片付けブラインドや窓がちゃんと機能するようにする。我妻は小さな飾り物が好きで我が家の殆どの窓枠には何か小物が置いてある。その為に窓は閉まらない、ブラインドを閉めるたびに細かいものが下に落ちる、と私は好きではないのだが、あまり窓を閉めない開けっぴろげな彼女は気にならないらしい。私は隣の住民などと目が合うと嫌なので以外と細かくブラインドの角度を変えたりしているのだが。そんなふうに夫婦とはいえ一つ屋根の下に住んでいるとそれぞれの好みがぶつかる。私は細かいものは掃除が面倒だったりよく倒れたりするので好きではないのだが、キラりと光る工具やカメラなど日常よく使うものを普通に部屋の中においておくことに全然抵抗は無い、というかそういう光景が好きだ。しかし妻には許せないらしく、そのままにしておくと工具やカメラレンズはその辺の箱にドカッと放り込まれていたりする。そのたびに私は彼らを救い出し心の中で「80−300ミリズーム君、大丈夫だったかい」などと傷を確かめ胸に抱き抱え頬ずりをする。大事にしているものが違うのだ。我が家の本棚を覗くと妻の作った貝殻標本や縫いぐるみ、村上春樹の本などが並ぶ妻のコーナーとカメラやドアーズ、加山雄三などの古いレコードや野田知佑などの本が並ぶ私のコーナーがなんとなくあり、まったくそれぞれ調和していないが同じ本棚に治まっている。これが夫婦生活18年近くなる家庭の本棚だ。

そんなふうに二つの違った生き物は何となくどこかで妥協点を見つけ出し一つ屋根の下で毎日を暮らしていくのだが、それぞれの絶対的権威のある部屋というのはやはりある。我が家ではキッチンは彼女のもの、私は自分の子供達やここに来る居候ほども何がどこにあるか把握していない。ここは彼女の創作の場だ。逆にガレージは私のスペース。一人家の喧騒から抜け出したい時、何かを創作したい時、ゆっくりと音楽を聴いて酒を飲みたいとき、ここに来る。近所のガレージを見るとやはりそこは男の領域らしく、それぞれの家主の趣味がわかって面白い。ハーレーディビッドソン、バーベル、テーブルソー、プールテーブル、サーフボード等いろいろな男のおもちゃが置いてあり思わず話しかけたくなったりするガレージの主もいるが、もしそこにテディベアやミッキーマウスを飾り付けている家の男がいたらやはりあまりお友達にはなりたくないかもなぁ。

06年11月28日
日本レーシック手術旅行

昨日1週間の日本旅行から戻ってきた。近視矯正手術(レーシック)を受けに行ったのだが0.08の視力がいまは2.0になった。しかも料金はハワイの半額ということで万人にオススメしたいところだが、私の場合は弱い老眼だったのが腕時計も携帯電話も読めないとても強い老眼(っていうのかな)になってしまった。これってどうよ、と思うのだが、ちょくちょく時計や携帯電話を使う日本の生活ではとても不便だったが、マウイでは波や鳥や魚やイルカを見つける目なのであまり気にならないかもしれない。しかしコンピューター作業も老眼鏡ナシでは出来ないのでやはりかなり不便だなぁ。目が落ち着けばもう少し良くなりますよと医者は言うのだがそう願いたいところだ。もしこの手術に興味がある方は知ってる限りで相談に乗りますのでメールでもください。今回は約1週間の日本滞在ながら術前、術後の検査を入れ電車で銀座の目医者に5日通い、そして娘のためにディズニーランドや八景島シーパラダイス、いくつかの友人宅などに通い、途中カメラやコンピューターの修理に忙殺し、息抜きというものはその間に友人達ととる食事くらいだったろうか。なにせレーシック手術後は酒もタバコも温泉もだめという私の日本での三大楽しみを全て奪われてしまったのだ。ひそかに地獄谷温泉のサルとか、京都の紅葉などを撮影したいと思っていたのに残念だ。さらに娘のグリーンカードが切れていることが発覚、急遽アメリカ大使館に出向き事なきを得たがホノルルの入国審査で揉めるかもしれないので当初は一人で娘を帰し私はもう少し日本でゆっくりする予定だったのだがそれも断念、予定を早めて私も一緒に戻ってきた。ささささらに、絶好調で遊園地や友人と遊びまわっていた娘は飛行機に乗ったとたん40度近くの発熱(前日にローラーコースター6回とか乗っていたのだ。)、ホノルル空港に着いたとたん鳥インフルエンザの疑いありと検疫間がどどどどどっと飛行機内に入ってきてものものしいチェックのおまけもついた。入国審査は「娘さんのグリーンカード切れてるからリニューアルしといてね」とあっけないほど簡単に済んだ。ホノルル空港を出ると妻が迎えに来てオアフ島でのサーフィンの話をしていたがなんだか日本で凍え疲れ切っている私と娘には遠い話にしか聞こえない。

ということでやっとマウイに到着し、重いジャケットを脱ぎ捨てて短パンとTシャツのいつもの格好になると心も軽くなってくる。今回は自分の実家や東京の友人宅を転々として電車で移動していたが「この生活は出来ないなぁ」と思う気持ちだけがいっそう強くなった。目の手術のせいもあるかもしれないが人々の多さに何度かマジで嘔吐しそうになりました。大波乗りのレイヤードハミルトンが自分のDVDの中で「俺より狂ったことをやってるのは都会に住み会社員をやっている人だけだ」といっていたが、もうすっかり私もこっち側の人間になってしまっているようです。

写真は今回のお土産。ウォッシュレット、破れにくい障子紙、バガボンド最新刊、フリマで買った鉄腕アトム300円、CD(金子マリ、細野晴臣、喜納昌吉)等、やっぱりもうすっかりこっち側の人間になっちまってる(笑)。それからいつものことではありますが、突然連絡をしたのにも関わらず遊んでくれた人たちありがとうございました。B型なものですみません。娘と遊んでくれた方、私を海やコンサートに連れて行ってくれた方、遠い場所から駆けつけてくれた方、遠い場所まで連れて行ってくれた方、宿をあてがってくれた方、その他多くの皆様、マッチマハロ!

06年10月01日
I Can't Wait.

こちらでは16歳からいわゆる日本の教習所のような授業(Driving Education)を受ければ州の運転免許を受けに行く資格が出来る。逆にこの授業を受けないと18歳まで車の免許を取ることは出来ないのだ。一月ほど前から我が家の息子も漸く重い腰を上げDriving Eduの授業に通いだした。公共の交通機関の乏しいマウイでは親は子供の運転手代わりにでどこに行くにも連れて行かなければならない。思えば学校、スケートボードパーク、友人の家、海海海と本当に16年間色んな場所に連れて行ったものだ。不思議なことにアメリカの親は抵抗を感じずに子供のいうがままにどこにでも連れて行っているように見受けられるのだが、これは彼らがそうされて育ってきたからだろうか。日本で育った私的には歩いて20分以内の距離は歩けと言いたくなるので、よくそのことで喧嘩にもなった。私と妻が必要な時意外は動かないのを承知しているので息子もヒッチハイク術が上手くなったようだ。話を聞くと真面目そうな小さな友人を道路に立たせ車が止まると草むらから仲間達がぞろぞろと出て行くそうだ。友人にも良く「カズマがヒッチハイクしてたよ」と目撃されているが、そうやって苦労してマウイ中を遊びのグラウンドにしていた時期もあとわずか、順調に行けば今月中にも運転免許がとれるらしい。親としてはようやく肩の荷が下りる、と言いたいところだが今度はそれはそれで無事に家に戻るまで心配なのだろうな。

今は年に一度のマウイカウンティフェア、いわゆる移動遊園地のような催しを4日間続けてやっているのだが昨日息子は車を持っている同年代の友人に乗せて行ってもらい、帰りはなんと2時間半かけてカフルイから歩いて戻ってきたそうだ。我が家にたどり着いたのは夜中の2時過ぎ、話を聞くと友人が酔っ払ったので彼の車に乗りたくなかったとのこと。数ヶ月前にハナの崖から車が転落させた友人だ。車は大破しながらも息子を含め奇跡的に全員無傷だったから良かったようなもののそれから車の怖さを知ったようで結構慎重だ。とはいっても16歳の若い盛り、無茶な運転をしなければよいと願うばかりだ。

写真はわりと最近のもので彼の波乗り仲間を妻がラハイナでピックアップした時の1枚。これを書いている今もビッグビーチに息子を落としてきたところだがこのような海坊主達の運転手係とももうすぐおさらばできそうだ。今度は私が散々酒を飲んで「おーい、迎えに来い!」と逆襲する番だ。

06年08月15日
Catch a wave for Chris
マウイの優秀なサーファーでシェーパーであったクリス・バンダボーが8月8日44歳の若さで自らの命を絶った。諸説は色々あるが本当の原因については本人以外にはわからない。ただ「クリス、何でだよう」という思いだけが湧きあがってくる。息子に「クリスが自殺した」と伝えると彼は黙って自分の部屋に行き鼻をすすりながら壁をどんどん叩いていた。悔しいのだ。

もう10年ほど前だが私も妻も初めてのカスタムボードは彼に作ってもらった。小波のコーブでも頭のホノルアでも乗りやすい板と好き勝手な注文をつけた私に「Oh No!」と頭を抱えながらもとてもバランスの良いオールマイティな9`2``のボードを削ってくれた。その後もクリスの家族とはマウイ島のサーフィン大会などでよく顔を会わせたが、いまでも声を枯らして真剣に我が子を応援する彼の姿が脳裏に浮かぶ。彼の自殺の4日後にマウイ島では一番大きなロングボード大会があった。息子のハンスは参加するのか疑問だったが、いつもどうりの冷静なライディングで年齢別部門で見事優勝した。インタビューに答え「父ならこうする、といつも考えながら乗りました」と語っていた。クリス、天から見てたかい?

今日はクリスの愛したパイアベィに彼の友人知人500名ほどが集まり別れを告げた。皆でサーフボードにまたがり海の中で輪を作ったがこんなにでっかい輪に参加したのは初めてだ。やりきれない気持ちで水を叩き叫び感情を吐露する。どの顔もぐちゃぐちゃだ。こんなに友人がいたのに何故?という思いが今更ながら湧き上がるが、この姿を天から見てる彼はきっと後悔してるよ、と誰かが言った。

優秀なサーファーでシェーパーであったクリス、彼の葬式に配られたカードには「When you are in the water, Catch a wave for Chris」と書かれていた。10年前に私のためにシェープしてくれたWatah Monの板は体重が増えた今の私にはやや辛いけど今度久しぶりに乗ってみるつもりだ。
06年06月25日
時代は変わる。

最近ちょっとアマゾンにはまっていて暇があるとCDDVDなどをチェックしている。もとはといえば、忘れかけていたセンチメンタルシティロマンスの30周年ライブDVDを歌手の友人にもらったのがきっかけなのだが、そのDVDがとても良く、(これは私の思い入れも深いが本当に良い音楽DVDだと思います。)何回も繰り返して見てしまった。そしてアマゾンをチェックすると私が70年代に聴いていたかなりマイナーな人たちのCDDVDが復刻版として再発されているではないか。もうとっくに葬り去られていると思っていたのでそれは嬉しい驚きだった。そんなわけで先月はCDやDVDに300ドル近くも使ってしまいやや反省しているが内容は、久保田麻琴と夕焼け楽団が企画出演し日本のウッドストックにたとえられた「夕焼け祭りライブ」これには「めんたんぴん」や「裸のラリーズ」、「オレンジカウンティブラザースバンド」、「アイドルワイルドサウス」「上田正樹とサウストゥサウス」等70年代の実力派ロックグループが出ているので速攻(その名の通りエキスプレスオーダー)で買ったが音も映像もお粗末なものでがっくし、動くクボマコと70年代の自由の香りを少々味わえたが私のような変わり者以外にはお勧めできない。なんせ1枚で9000円近くするボッタクリDVDなのだ。

他は憂歌団等の出演するショールームレーベルのライブ、遠藤賢治、友部正人のライブDVD等を購入しCDではケイソンの前に彼ありき、と言う感じの南正人、地元横浜本牧のゴールデンカップス、そして定食屋シャブトーのBGMで聴き、「かっこいいじゃん」と思ったアンルイスなどを購入した。

私が知っているアンルイスといえば「グッバイマイラブ」くらいなものだったが、定食屋で聞いたその歌は「六本木心中」と言う歌で歌謡ロックという言葉があるのならアンルイスは沢田研二よりよほどさまになっていて、「ええどええど」という感じだ。多分日本の皆さまにはカラオケでも歌われないくらい古い歌なのだろうが、この時期私はもうアメリカに来てしまっていて、この「六本木心中」やそれに続く「ああ無情」はあまり記憶になく新鮮だった。

しかし高校生の頃地元横浜の小さなスナックのジュークボックスに10円玉をポロポロと転がしながらいいないいなと何回も聞いた「Good bye my love, I’ll never forget you」の清純派アンちゃんが、「うぬぼれないで 言葉じゃダメさ 男らしさを 立てておくれ〜♪」とこぶしを振り上げながら歌うようになるなんて想像もできなかったが、なんとなくそこに運転も電話も出来なかったアメリカに来たばかりの自分の妻と今は片足をダッシュボードにブン投げてアイスクリームを食いながらブイブイ運転している彼女の姿がダブってしまうのは何故なんだ。

06年06月11日
小野真弓ちゃん

先日「小野真弓」というタレントさんにダイビング講習をした。なんでもマウイのロケが早く終わり思わぬオフ時間が出来たので友人がはまっているダイビングのCカードを取りたくなったそうだ。申し訳ないが私はその子を知らなかったが、とても気の良い頑張りやさんでもちろんかわいいので、おじさんはすっかり簡単にファンになってしまった。(オヤジを落とすのは簡単だぁ。)

初めは、久しぶりの学課講習なので私もやや戸惑ったが幸いなことにマンツーマンなので楽しく終了することが出来、彼女も無事に学科試験をパスしてくれた。次の日からの海洋実習は思ってたとおりとても上手で、やはりこういう仕事をしている人は度胸があるし身体を動かすのに慣れているなぁと感心する。

しかしながら彼女にとっての初めての水中は呼吸こそ出来るものの無重力の中なので身体の動かし方が思うように行かずクルクル廻ってしまう。そこで手を差し伸べて助けるのだが、講習なので心を鬼にしてなるべく自分でコントロールできるようにと慣れたところで手を放す。しかし、またすぐに「助けて」と手を差し伸べられるので、身体は心と裏腹に「うん、助けちゃる」と簡単に手を差し出してしまう私も困ったものだ。
水中で「楽しいダイビングを可愛い子と手を繋ぎながら潜りおまけにお金までもらってしまうとはなんて罪な仕事なんだ」と新潟でトンカチを握るI 君や大阪でコロッケを作っているだろうK、横浜でバスを運転するO君などに申し訳ないななどと考えてしまったがこの世にはオンもオフもサーフィンをしながら生活しているプロサーファーTという生き物もいるので善しとしよう。

3日間の講習が終わり、彼女は無事にPADIオープンウォーターライセンスを取得したがこれからもチャンスがあれば是非ダイビングを続けてほしいなと新米の小野真弓ファンは思うのである。

写真は水中でのおちゃらけ真弓ちゃん、美人は髪の毛がおったってても可愛いのだ。

06年06月03日
HOME POINT
さあ、これからエネルギーに満ちた1日が始まるぞー、気持ちいいぞー、みんな起きろぉーと清清しくも力に満ちた早朝の光も好きだが、今日も1日お疲れさん、さぁ、音楽を聴きビールを飲みあとは仲間と自由にくつろいでくれよーとでも言ってるような夕暮れ時がマイフェイバリットだ。最近は7時頃に太陽が海に落ちるのでその1時間ほど前からビールとサーフボードとカメラの夕焼け3点セットをピックアップトラックに積み込みいつものコーブパークに向かう。波があれば海に入りながら刻々と変化する空の色を楽しみ、波がなければビールを飲みながらホロホロと過ごしている。何気ない毎日の光景だが波打ち際で遊ぶ子供や犬、岩場から釣りをしているおっさん、黄金色に染まるサーファーやアウトリガーカヌー、BBQの匂いとマリ○ナの匂い、落ちる太陽と染まる空、人々の笑顔と何処からか流れてくるハワイアンミュージック、フォトジェニックな光景が溢れている。

太陽が完全に海に落ちると、オレンジ色の世界から黄金色の世界に変わる。やがて海と空と太陽が作り出す見事な天然ショーが幕を閉じると多くのツーリストやパッシングバイはそれぞれの場所に戻っていく。そして海が静寂を取り戻し月と星達が力強く輝きだす頃、一握りの残った仲間達からビールが回ってくる。1日の労働が終わった男たちとひと時の自由な時間とスピリッツをシェアし、やがて満ち足りた気分で妻や子や犬たちが待つ家路につく。

多分人生に必要なものはそんなに多くない。

06年05月29日
Big Beach Forever

マウイ島は日本からの直行便もなく宿泊も物価も高いので海遊びが主ではない日本人観光客には何かと敬遠されてしまうようだが、島に閑古鳥が鳴いているのかというとそうではなくアメリカの旅行雑誌で12年間人気NO。1の島(2位はカウアイ島、3位はタヒチのボラボラ島らしい)として北米やカナダ人で1年中賑わっている。特に最近はブリットニースピアーズやクリントイーストウッド、タイガーウッズにオペラ、スティーブンタイラーにウイリーネルソンなど私が聞く限りでも多くの有名どころが住居を構えたり別荘を建てたりで第2のビバリーヒルズ化している。そうなると全米各地のお金持ちはマウイにバケーションに来ることが一種のステイタスで、宿泊施設も軒並み値上げするハイシーズンにはまともなホテルは1泊300ドル以下では探せないような状況なのに客数は順調に年々増え続けているというから驚きだ。

しかしお金持ちが増え税金がばんばん転がり込み調子に乗っているマウイ島は我々のような一般庶民にはだんだん住みづらい島となってきた。現在ガソリンは1ガロン約3ドル60セント前後、日本円に直すとリッター100円と言うところだろうか。我が家の電気代は毎月3〜4万円、水道代は毎月1万円、健康保険は毎月6万円前後かかる。現在マウイで月10万円以下の賃貸物件や5000万円以下の中古住宅を探すのは至難の業だ。これが12年間人気No.1、バブリーマウイの現状だ。このままで行くと他所から入ってきたお金持ちの人たちのマネーパワーで彼らに都合のいいような島になっていきそうで末恐ろしい。自然保護のため開発禁止だったマケナ地区は知らぬ間に開発OKとなり今ではそこかしこの地面を削り取られ地肌をむき出しにしている。もちろん開発業者の狙う顧客はメインランド(本土の人)のお金持ちだ。土地だけで何億もする場所を買えるマウイ住民はそういない。

先日久しぶりにサウスの誇るマケナビーチ(通称ビッグビーチ)に行った。ロコキッズは波の良い第2駐車場かその先にたむろするのだがボディボードやスキムボードなどで観光客のずらっと寝そべる前でエルロロやバックフリップなど華麗な技を決めている。ここビッグビーチはロコティーンネージャー達の溜まり場になっていてわが家の息子も友人たちとサーフボードやボディボードを持ってヒッチハイクでよく繰り出している。年頃のロコガールズが見ている前でボーイズ達は「女なんて興味ないぜ」とばかりにクールを装いショアブレークでいろいろな技を決めかっこつけている。その情景は雌クジラの前で気を引こうとしてブリーチングを繰り返す雄クジラのようでもあり、ほほえましい。

海を社交場にきらめく太陽の下で思いっきり身体を動かし全身で笑い、成長していく彼らは本当に恵まれている。願わくばこのロコキッズたちのすばらしい遊び場が開発の波に押し流されることなく過保護な規制を作られることもなく、彼らの子供達の時代までずっと継続していって欲しいと願う。

06年04月09日
Like an Old Hawaiian Surfer

板を取り囲むコーブローカル達、青Tがリチャード 木工職人の技です リラックスして滑るハワイアンのムーンおじさん。

「バルサで作った手作りのサーフボートの試乗をするから写真を撮ってくれ」と私がよく行く家から5分のサーフポイント、コーブパークの波乗り仲間から連絡が入った。「OK、日曜ならいいよ」と答え、その日曜日の今日、写真を撮り終わって家に帰ってきたところだ。話が何でも大きいこっちのことだから、正直たいした板じゃないだろうとタカをくくっていたが、一目その板を見たとたん、その見事なシェープを知らぬ間にナデナデしていた自分がいた。そこにはシェーパーというか“クラフトマン”リチャードの職人業と情熱と根気の傑作8ストリンガーの見事なバルサボードが目の前にあった。フィン1つとってもいったい何日かかったのだろうと考えてしまうほど凝りに凝っている。りチャードは我々くらいの年齢(50Years Young)で最近テキサスから引っ越してきたニューカマーだ。カリフォルニアに住んでいた若いころはサーフィンばかりやっていたが、それからコロラドやテキサスに引越し30年ほどサーフィンから遠ざかっている間も情熱だけは持ち続け、娘の「サーフボードを作ったら」の一言でぐっとその気になり、いろいろな書物で昔のハワイの板を研究し作り始めたのだという。そしてこのマウイに引越し自分のサーフィンも30年ぶりに復活させ、自作ボードも始めて海につけるということになった。彼の願いは自作のクラッシックボードの性能を試すこととハワイアンサーファーに乗ってもらい白黒の写真を残すことらしい。そしてモデルがDuke Kahanamoku似のMoon、撮影が私ということに知らぬまに決定していた。

撮影日の今日は残念ながらモモ、ヒザサイズくらいの波しかなかったが、風格溢れるサーフボードをムーンがゆっくりとパドルしはじめると周りのみんながススッとよけ、まるでハワイの王様のサーフィンの儀式を見ているようだった。Moonは腰ほどのサイズの波を優雅に捕まえ楽しそうに横に進んだ。乗り心地を聞くと「Like Caddy」と微笑んだ。大きくゆっくりと優雅に進む板はキャデラックのようにゆったりとした乗り心地らしい。

一通り撮影が終わり私もリチャードに頼みその板に載せてもらったが、長さも重さも厚みも私の板よりはるかに大きいので、波を簡単にキャッチし、波の斜面を優雅にグライドする。その重みのせいで50/50のレールをしっかり入れないと曲がってくれないが、小さなスープなど何でもないように力強く進む。私のほかにもそのクラシックボードに乗りたい老サーファー達が後を絶たず一人ずつ順番に数本の波を乗り回し、みんな口々にその板を褒めていた。多分このコーブパークのようにあまり掘りあがらない緩い波に適した板なのだろう。

大きな波を求め軽い板で空中に飛び出しエアーショーのようになっている現在のサーフシーンの反対側に昔のハワイアンのように大きく重く曲がりにくい板で優雅に波を滑るサーフィンもある。そしてそれはなかなか艶っぽく私を含めコーブに集まる年配サーファー達をひと時興奮させた。

06年02月14日
拓ちゃんが今日の斉田弘之に与えた多大なる影響。

初期の拓郎ファンの方にはこのタイトルがわかりますね。告白してしまえば中学生の頃は熱心な吉田拓郎のファンでした。15歳のころ、姉の持っていた吉田拓郎の「人間なんて」のLPレコードを聴きガツンとすごい衝撃を受けたのが始まりだった。毒にも薬にもならない歌謡曲やグループサウンズが全盛の頃、「思いのままにならないまでも好きにやりたい、勝手にさせてよ気ままに生きたい俺の人生」とジーンズに長髪、ギターとハーモニカをかき鳴らしながら叫ぶように歌う若者がTVとは違うアンダーグラウンドの世界から現れたのだから保守的な家に育った多感期の中学生は目からうろこ、単純に「そ、そーだよなぁ」と話せる兄貴出現って感じで吉田拓郎という人物にどんどんはまっていく。彼がDJ担当の深夜放送の日は欠かさず夜中の3時まで聴いていた。そうラジオは短波も聞けるナショナルのワールドボーイという奴だった(だんだん思い出してきたぞう)。その深夜放送の語りの中で彼が大学時代に応援団だったこと、初めての奥さん(六文銭のヨスミケイコ、オケイですね)とのきっかけはコンサート帰りに酔っ払いに絡まれていた彼女を救ったこと、数々の武勇伝、多くの恋、育った広島のこと、出てきた東京のこと、いろいろと語ってくれた。彼が生で弾き語りをするときなど、ラジオの前にカセットテープレコーダーをセットし音をたてないように苦労しながら録音していたものだ。彼の父親が亡くなったときに「今日親父が死にました。ろくでもない親父でしたがやはりこたえます。」といった後に即興で「親父の唄」を歌いだしたときは嗚咽が止まらずどうにも困ってしまった。また「今日はステレオ放送でお送りします。」とハアハア言いながら右と左のマイクの間を駈けずり回っていた時もあまりの馬鹿らしさに布団の中で笑いを押さえるのが大変だった。ゲストに浅田美代子を向かえた時、彼女の天然ボケに拓郎のテンションが妙に上がっていたことも覚えている(後に結婚しましたね)。また「今でも腕立て伏せできるかなぁ」といきなり「これから腕立て伏せを30回やります。」と宣言し1、2、3、と大声で数えながら20回ほどやったとき、「あ、鼻血が出てきましたー、鼻血です」と叫びだした深夜の「ハナジ事件」も忘れられない。あーこうやって思い出すといろいろあるなぁ。やっぱり俺ってかなりコアな拓郎ファンだったんだな。今考えれば中学生にしてはちょっと異常な深夜の世界だがその頃はそんな風に過ごしていた輩も多かったと思う。

先日馴染みのおすし屋さんに行ったところ、なんと左奥のテーブルに仲間たちと磯納豆を美味しそうに食べている拓郎氏を発見してしまった。プライベートで寛ぎに来ている彼を盗み見るのも声をかけるのもためらわれるが、彼の声が漏れ聞こえるたびに胸がきゅんとしてしまう()。感情を抑え落ち着かない気分で食事を続けていたが、彼らが帰るときにチラッと振り向くと背中を向けていた連れの男性がなんと私の友人で「あ、ヒロさん」と私を店の外に手招きしてくれ拓郎さんに紹介してくれた。拓郎さんに「はじめまして」と挨拶され「実は30年ぶりです」と答えた。30年ほど前に渋谷公会堂のコンサートに楽屋から入る機会がありその際にサインをいただいた事があるのだ。友人が「ヒロさんはマウイでボートキャプテンをしている」と紹介してくれたが、私が「拓郎さんが泳げないのは知っていますから無理には勧めません」というと「いまだに10mがやっとですね」といいながら苦笑していた。そんな風に談笑しているとやがて彼のリムジンが迎えに来てしまったのでお別れしたが、若い頃にいろいろ経験した彼は今はとても自然体に見え、なんだか礼節をしっている大人の男という感じでした。今度じっくりと一緒にお酒でも飲むチャンスがあればボカァシアワセナンダガナァ、、。

06年01月16日
虹の中のサーフィン

今年は正月そうそう埃っぽい話を書いてしまったので今回は素敵な話を書こうと思う。

先週は毎日風が強くサーフィンをやりたいときは1時間かけてホノルアベイまで通っていたが、この日はカアナパリを抜けると大雨でホノルア方面は雨雲で真っ黒に見えた。大雨だとあの崖は降りられないし、車もスタックしそうなので一応その手前のポイント「Sターン」をチェックすると腰腹程度のサイズの波が割れている。しかも沖で待っているロングボーダーは一人だけ、やや風があり波は小さいがのんびりやれそうなので一緒に来た友人と相談しここに入ることに決めた。2年前にこのポイントでタイガーシャークにアタックされロコサーファーが出血多量で一人亡くなっているが、私もこのポイントに入るのはそれ以来初めてだ。顔を知っていた彼のことを少し思い出し冥福を祈りながら沖に向かってパドルをはじめると雲に覆われていた空から太陽が顔を出しはじめ風も徐々に納まってきた。しかも沖にいたサーファーは久しぶりに会う友人でこれ以上いいことは無い。メローな波を友人同士で乗り回し無駄口をたたきながら満ち足りた気分で遊んでいた。

ふと気づくと雨上がりの海の上に大きな虹が2本くっきりドカーンというかんじで出現しなんと我々はその中心にいた。陸の上では何台かの車が止まり我々と虹の情景を写真に収めている。見惚れる様な虹の真ん中で我々はサーフィンを続けたが、まるで亡くなってしまったサーファーが「その調子で俺の分まで楽しんでくれ」とでも言っているような祝福に満ちたすばらしい光景だった。その虹はだんだん高さを低くして最後には消えてしまったが、30分間ほどの天からのメッセージをしっかりと胸に受け止めた。

06年01月04日
埃だらけの年初め

新しい年がやってきた。ここマウイ島も2006年の始まりだ。
12月は娘と私の誕生日、さらにクリスマスとニューイヤーイブとが重なり毎年のことではあるが楽しく忙しく過ぎていった。珍しく無風晴天が続き波のほうも連日西からの大きなうねりが入りマウイ中のサーファーがキヘイ、ワイレア、マケナ地区に結集し大変な賑わいだ。私のよく行くコーブパークも頭前後の波が続き初心者はインサイドで波を待ち、経験者はアウトサイドで大波狙いといい感じで分かれている。

大晦日の午後にはトレードウインドが戻り海が荒れはじめた。第2便のボートをキャンセルしたがどうしても海に出たいという家族の熱意にまけ「では明日の午前中」と正月休みを返上し11日にボートを出すことにした。残念ながら風と波はやまずモロキニ島のインサイドは西側に張り出す浅場でボディサーフィンができるくらいの波が割れその波がモロキニ島にぶつかりバックウォッシュをつくりインサイド全体が大きな洗濯機状態になっている。結局体験ダイビングはあきらめてもらい風と波を避けられるバックサイドに回り40mほど下が見える吸い込まれるようなポイントでドリフトシュノーケルをした。連日の波で透明度が極端に落ちているので亀のポイントにも連れていけなかったが港に戻り「あの海でシュノーケルができて本当に良かったです」という言葉をいただいた時、正月休み返上の疲れは吹き飛んだ。

2日もボート仕事をこなし13日は待ちに待った休みだ。5時から起きだしコーヒーを煎れ日本語のニュースを見てから昨日まで炸裂していた近所の海(コーブ)に波チェックに行くとなんと膝くらいのサイズに落ちてしまった。おまけに小雨も降り風も吹いてきた。朝方サーフィンをあきらめて家に戻ると冬休み中の娘が新しいスポンジボブのTVを接続してくれという。彼女の部屋までケーブルの線が通ってないのでどうしようかと思案の末、屋根裏に入りケーブルをぶった切り分配器を付け部屋に通す作戦に決定。懐中電灯と各種工具を手に持ち正月から怒涛の屋根裏に突入した。真っ暗な屋根裏に入るとむわーっとした熱気が体中を包み10年分の埃と一緒に小鳥の巣まである。そういえばだいぶ以前に屋根の下の小さな通風孔に親鳥がよく餌を運んできていたのを思い出した。そこから顔を出す雛がかわいそうでその穴をふさがずにいた。そして雛が立派に飛び立ったらこの穴をふさごうと思いながらもそのまま忘れてしまっていたのだ。とりあえずその巣は見ないことにしてやっとこさ接続を終え下界に降りTVをつなぐと雑音が混じり写りもややよろしくない。「パパー、もう少しよく映らないのぉ、MTVが白黒になっちゃうよぉ?」と女王様のささやき。安かったからとアフターサンクスギビングセールでスポンンジボブTVを買った妻をやや恨む。「今日はもう勘弁してくれ」とビールを飲みサーフボードをトラックに積み込み海に逃げる。ジャンクな波でも屋根裏より百倍居心地が良い。燃えるような夕日がジューといいながら(気分ね)海に落ちたので「OK,Aloha Wave」と周りに声をかけ最後の波に乗り岸に上がる。海でシャワーを浴び家に戻り冷えた身体をジャクジーで温めながらグビグビッとビールを喉に流し込むと人心地つく。見上げると満天の星と人工衛星が見える。そしてこの世には綺麗なものが一杯あるのに明日も屋根裏に入る定めのわが身をしばし哀れむ。

日が変わり今日は14日、屋根裏に再度突入し(上の写真、肩には鳥の巣駆除のゴミ袋、この日は照明係として娘も一緒に突入した)新しいケーブルの分配器を付け鳥の巣を駆除し無事任務完了、おかげでスポンジボブTVはだいぶ映りがよくなったが私は今埃だらけの身体でこれを書いている。ポリポリポリ、、、